“皮膚を売った男”は実在した!映画化のきっかけとなった、型破りな芸術家の正体やシリアの内実を知る
ヨーロッパや北欧、アフリカ大陸などで制作された映画は、ハリウッド大作に比べると、大勢の観客に観られる機会に恵まれているとはいえない。しかし、そのなかには評価の高い優れた作品も多く、その国ならではの歴史や文化を知れば、もっと映画を楽しめるようになる。世界各国の良作映画をピックアップする本企画で今回取り上げるのは、祖国を追われ難民となった青年が現代アートの世界に迷い込む『皮膚を売った男』(11月12日公開)だ。
本作は、チュニジアの女性監督カウテール・ベン・ハニアによる2本目の長編劇映画。大金と引き換えに背中をアーティストのキャンバス として提供した青年の数奇な体験が描かれる。現代アートを取り巻く状況と難民問題を組み合わせた視点が評価され、映画は2020年には東京国際映画祭にも正式出品され、2021年の第93回アカデミー賞国際長編映画賞の候補にもなり話題を呼んだ。美しい映像とユーモアを交えた語り口で社会が抱える問題をあぶり出す、硬派な社会派映画とは一線を画した作品である。
現在もアート作品として生きる主人公のモデルと、奇想天外な芸術家ヴィム・デルボア
本作はまったくのフィクションではない。ハニア監督にインスピレーションを与えたのが現代アーティスト、ヴィム・デルボアの存在だ。ある時、アート好きであるハニア監督がルーヴル美術館を訪れると、デルボアの回顧展が開催されていた。そこで彼女の目を引いたのが、デルボアが2006年に発表した「TIM」。ティム・ステイナーという男性の背中にタトゥーを入れた作品で、会場ではステイナーが入場者に背を向けてひじ掛け椅子に座っていた。その光景に衝撃を受けた監督は、デルボアに「TIM」をモチーフにした映画作りを打診。許諾を得ると、わずか5日間で構想をまとめ脚本を書き上げたという。
デルボアとはどんな人物なのだろうか。1965年ベルギー生まれのデルボアは、“身体”に焦点を当てた多くの作品で知られる現代アートの異才。排泄物をタイルにプリントしたものや豚の体にタトゥーを入れる「Art Farm」シリーズ、人工的に排泄物を製造する装置「Cloaca」など、異質な要素を組み合わせた先鋭的な作品で知られている。「Art Farm」が動物虐待だと裁判になると中国の農場を購入しそこで作業を行うなど、自身の創作活動のためなら手段を問わないスタイルは、時に批判を集めることもあった。
「TIM」のオーナーはドイツのアートコレクターで、落札価格は15万ユーロ(2008年当時、約1900万円)。ステイナーは年数回の展示会への出展のほか、死後タトゥーが彫られた部分の皮膚をオーナーに渡す契約を結んだという。映画のストーリーはフィクションだが、主人公を取り巻く状況には実話も織り込まれている。ちなみに、ステイナーはタトゥーパーラーの元マネージャーで、ガールフレンドを通してデルボアと知り合い、自らキャンバスになることを申し出たそうだ。
なお、映画にはデルボア本人も保険会社の社員ヴィムとしてカメオ出演している。「TIM」の作者に、アートをビジネスの対象としか見ないビジネスマン役を演じさせたのはハニア監督のお遊び。“異質な組み合わせ”という意味で、デルボアにぴったりのアイデアだ。当のデルボアは出演を楽しんだうえ完成した映画にも感激し、2時間にわたって電話で監督に賛辞を贈ったという。
圧倒的映像美を実現させた、“奇跡的な縁”
本作の魅力の一つが、美しい映像の数々。オープニングで映る異界のような美術館をはじめ、鏡像や光の反射を取り入れ、前景や障害物を象徴的に使った構図など、凝った映像がストーリーを盛り立てている。
それらの撮影を手掛けたのが、レバノン生まれのクリストファー・アウン。ドイツに渡りテレビ映画大学で撮影を学んだアウンは、帰国後に手掛けた『存在のない子供たち』(18)が米国、英国それぞれのアカデミー賞、さらにはカンヌ国際映画祭ほか多くの映画祭で外国語映画賞にノミネートされ、その名を世界に知らしめた。2019年に「Variety」誌の「注目すべき10人の撮影監督」や撮影技術の老舗雑誌「American Cinematographer」誌の「Rising star of Cinematography 2020」に選出されハリウッドからも熱い注目を浴びている。
制作にあたりハニア監督と徹底した打ち合わせを重ねたというアウンは、自然光や環境光、幻想的な照明を組み合わせてみせた。なかでも薄暗い空間を淡い光が照らし出す幻想的な美術館のシーンは息をのむほど美しい。当初、このシーンはルーヴル美術館での撮影を想定していたが、場所代だけで映画の製作費を上回ってしまうことが判明(ちなみに製作費は約7800万円)。しかし、デルボアの作品展を予定していた、ベルギー王立美術館が撮影に好意的だったため、同美術館での撮影が実現したそう。おかげでライティングを含め自由にカメラを回すことができたうえ、豚をモチーフにした造形物「TAPISDERMY」などデルボアの作品も劇中に使うことができたのだ。
そんな“奇跡の縁”はキャスティングにもあった。主人公サムを演じたヤヤ・マヘイニはプロの俳優ではなく、シリアで暮らす弁護士。短編映画などでの演技経験は持っていたが、ハニア監督は応募してきた彼の情熱を感じ取って起用したという。結果、マヘイニは2020年の第77回ヴェネチア国際映画祭のオリゾンティ部門(斬新な作品を対象にした賞)で男優賞を受賞することになったのだ。実際に映画を観ると、どこかユーモラスで味わい深い演技にきっと惹かれることだろう。
ハニア監督が出演を切望していたモニカ・ベルッチも、脚本を読むと出演を即決。熾烈なアートの世界でエージェントとして生き抜くため、感情を表に出さないソラヤ役を演じるにあたり、自ら髪をブロンドにして冷徹な“できる女”を熱演した。そんなマヘイニとベルッチの組み合わせが、慣れない世界に戸惑うサムと高圧的なソラヤの関係にリアリティを与えている。