『シン・ウルトラマン』イヤー開幕!樋口真嗣が語る、庵野秀明とのタッグと「ウルトラマン」と歩んだ道のり
「『ウルトラマンパワード』では、アメリカから根拠のない自信だけを持ち帰りました」
――樋口監督の「ウルトラマン」原体験を聞かせてください。
「僕は1965年生まれなので、原体験としては『ウルトラマン』の本放送ではなく、最初にリアルタイムで観たのは(特撮シーンの再編集回と、アトラク用着ぐるみの新撮回で構成された帯番組)『ウルトラファイト』でした。それこそ『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』の再放送があり、それを観たあとに『帰ってきたウルトラマン』が新番組としてスタートするという流れでした。『ウルトラマン』は、友達の兄ちゃんたち世代のものだったかと。ただ、『帰ってきたウルトラマン』のあとに続く第2期ウルトラシリーズの頃には、だんだんと上の世代が卒業し始めたので、やはり“俺たちのウルトラマン”といえば、『帰ってきたウルトラマン』だったりします。レンタルビデオが徐々に普及し始めて、初期作品の全体像を把握していくのは、高校生ぐらいのころですね」
――『帝都物語』(88)や『ウルトラQザ・ムービー 星の伝説』(90)で絵コンテを担当された実相寺監督を始め、空想特撮シリーズに携わった先輩と多くお仕事をしてこられたかと思いますが、特に印象深い出来事を教えてください。
「僕が下っ端のころは『ウルトラマン80』以降長らく実写テレビシリーズの新作が制作されておらず、ウルトラシリーズ冬の時代で。実相寺監督の作品や、実相寺さんの『コダイ』という会社が受けた仕事を手伝わせていただいているなかで、木下プロダクションの常務だった飯島監督が『ウルトラマン』のドラマをやろうと声を掛けてくれました」
――それはどんなドラマですか。
「『ウルトラマン』を作った方たちのメイキング的なお話で、『ウルトラマンをつくった男たち 星の林に月の舟』という作品でした。当時、実相寺さんが書いておられた『星の林に月の舟 怪獣に夢見た男たち』という自身をモデルにした小説のドラマ化です。この作品のヒットを受けて、ウルトラマンのスーツアクターになりたい男を描いた、武田鉄矢さん主演の『ウルトラマンになりたかった男』というドラマも制作されたのですが、ちょうどそのころに『ウルトラマンパワード』のお話をいただいたんです」
――『ウルトラマンパワード』はハリウッドで制作されたシリーズですね。樋口監督は前田真宏さんや三池敏夫さんと怪獣やメカニックのデザインでクレジットされていました。
「『ウルトラマン』のリメイクをやりたいということで参加しました。バンダイの渡辺繁さんがプロデューサーなので、バンダイビジュアル主導で制作するということで。ですから、『ウルトラマンになりたかった男』の特撮演出に入ってくれないか?と誘われた際にも、円谷に縁のあるスタッフの方々に対しておおっぴらに『アメリカでウルトラマン撮ってきます!』ということができず、『そのころはたぶん、別の仕事で海外に行ってます』とはぐらかすしかなくて(苦笑)。心が引き裂かれるような思いでいました」
――その後、どうなったのですか。
「結局アメリカに行ったら、そこは我々が思い浮かべるようなハリウッド大作の現場とはほど遠かったです。スタジオに行灯みたいなビルのミニチュアが並んでいたので、『すごい!アメリカではカメラテストにもこんなものを作るのか!』とおどろいたら、本番でもそのままでした(苦笑)。これはマズいと思い、渡辺さんに『このままだと大変なことになります』とスタッフ入りを頼み込んだのですが、ハリウッドには労働組合などの問題があり、なかなか難しくて。結局、スポンサーからの横槍という形で渡辺さんに介入してもらい、行灯みたいなミニチュアは、ロサンゼルスのダウンタウンにありそうなビルに改造させてもらいました」
――そのシーンの撮影にも参加されたのですか。
「いえ、ビザが切れてしまうので撮影自体には参加できなかったのですが、こう撮ればいいですよと教え、外の駐車場にミニチュアを並べて記念に写真を撮りました。いわば思い出作りです(笑)。その時の経験を通して、日本の特撮マンはすごいことをやっているんじゃないか?と根拠のない自信だけを持ち帰りまして、その後『平成ガメラ』3部作のミニチュアワークに反映されたこともあると思います」