濱口竜介の理知的な語り、独自の映画論に唸る。『ドライブ・マイ・カー』における“間”の解釈とは?

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濱口竜介の理知的な語り、独自の映画論に唸る。『ドライブ・マイ・カー』における“間”の解釈とは?

濱口監督と主演の西島秀俊
濱口監督と主演の西島秀俊[c]2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

劇中、家福(西島秀俊)とみさき(三浦透子)を乗せた赤い車は、映画の前半では安芸灘大橋を渡り、後半ではいくつかのトンネルを抜けていく。その「間」についての考察に対し、濱口監督はこう答えた。「橋は、レイヤーを一望できる場所です。一つのレイヤーがあり、もう一つのレイヤーに向かい、その先にはまたレイヤーがある。トンネルは、それが目隠しをされている状態で、どこを走っているのかわからないぶん、抽象度が高い空間になります。後半に行くにつれてトンネルの描写が増えていくのは、この映画の抽象度が上がっていくことと比例しています。空間も時間も凝縮されたものになり、昼のショットからトンネルを抜けると夜になり、晴れている空間からトンネルを抜けると雨が降っているなど、トンネルを抜けるとすでに変わってしまっているところを編集で選びました。トンネルを潜り抜けることで、キャラクターも変わっていき、それが観客にも届く変化になると思っています」。

「橋はレイヤーが一望できる場所」と語る濱口監督
「橋はレイヤーが一望できる場所」と語る濱口監督[c]2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会


小説と映画の“間”、アダプテーションについて「文学作品が優れていればいるほど、単に文章を映像に置き換えるだけでは、文章が作り出している感動を味わうことはできません。映画は映画のやり方で、現実とフィクションの間を捉えてしまうカメラの能力を使いながら、小説をどう映画にする方法があるのかと考えていく必要があります」と語る。その際に重要になるのがテキスト(=脚本)だ。

「(小説と映画の)中間的な存在として、演劇が存在しているのではないかと思います。演劇は書かれたテキスト、口語ではないものを口にする特殊な行為です。一方それが正当化される場で、観客は不思議には思いません。村上春樹さんが書かれたテキストがベースにありますが、チェーホフは本当に強い力を持っていると思いました。テキストを役者の体に保存し、それが相手との相互作用によって感情を引き出すものですが、チェーホフのテキストを使ったときに出てくる感情の量は半端ない(笑)。チェーホフのテキストには、現実とフィクションの境界をなくしてしまうような、人々の体に直接訴えかけるような力を持っていると思いました」。

劇中では演劇のリハーサルシーンが何度も登場する
劇中では演劇のリハーサルシーンが何度も登場する[c]2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

およそ1時間程度行われたオンラインのイベントだが、異分野の専門家との対話から、濱口竜介監督が捉える映画の定義や、彼を魅了する演技の神秘性などについての考察が語られた。映画についてのティーチインやシンポジウムでは、映像美や役者の身体性についての感覚的な議論は多く見られるが、濱口監督の言説は常に理論的。

アメリカの映画業界で活躍する監督・プロデューサーには、映画学校でこうした映画理論を徹底的に叩き込まれた人が多い。濱口監督は、既存の理論に独自の解釈を重ね合わせ映画を作り、それを的確に言語化しているところが、アメリカおよびハリウッドでの評価につながっているのではないだろうか。このイベントのアーカイブ映像は、後日ジャパン・ハウスの公式サイトにもアップされるそうだ。

文/平井伊都子

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