池松壮亮、『ちょっと思い出しただけ』に込めた“夜明け”への願い。伊藤沙莉は「ウィノナ・ライダーの精神を受け継いでいる人」
「夜明けを見られなかったら作る意味がない」
アフターコロナから、ウィズコロナへ。ライフスタイルや働き方も様々に変化し、コロナ禍は現代社会を生きる私たちにとって大きな時代の変わり目となった。照生と葉の暮らしぶりからも、その変化を感じ取ることができる。池松は「時代の変わり目には、“あの頃”を回顧する映画ってたくさん出てくるもの」と口火を切り、「そんななか、本作ではいまと過去を同時にすくいとろうとしています。 “ちょっとだけ思い出す”ことを、どれだけ特別なものにできるのかということがテーマでした」と打ち明ける。
池松が感じていたのは、いまと過去を描きながら、未来への光が見えるような映画が必要だということ。コロナ禍にあって、「あの頃はよかった」という映画にはしたくなかったという。
「いま映画を作るならば、『あの頃はよかった』と描くだけでいいわけがないと思っていました。これだけ変化を求められる時代になると、いろいろな恩恵も含め、負の遺産など、過去を消して新しいものを始めがちになります。でも過去にしがみつくのでもなく、過去をなかったことにするのでもなく、いろいろあったけれど『いまはもう、私は大丈夫だよ』と前を向いていくような映画になるといいなと思っていました。まだアフターコロナの夜明けは見えないけれど、それでも破壊の後には再生がやってくるはずです。それを客席とスクリーンという多くの人生が交わる場所で上映することが、いま、物語ることや、極めて真実に近い虚構である映画が出来ることなんではないかと思います。多くの人生の、過去がなかったことになりませんように。いまがなかったことになりませんように。という願いを込めた映画にしたかった。そういった意味でも、とても挑戦しがいのある映画でした」というように、いまを生きる人へのエールのような映画に仕上がっている。
さらに池松は「クリープハイプの楽曲『ナイトオンザプラネット』は、ジム・ジャームッシュ監督の『ナイト・オン・ザ・プラネット』に着想を得て作られていますが、『ナイト・オン・ザ・プラネット』もラストに夜明けを映した映画です。コロナ禍を生きているいま、僕たちも今回の映画で夜明けを見られなかったら、作る意味がないとすら思っていました。それは照生や葉の夜明けだけではなく、みんなの夜明け」と松居監督と共に、“夜明け”にこだわって本作に取り組んでいたと明かす。
本作を観ていると、きっとそれぞれのあの頃を“ちょっと思い出して”しまう観客も多いはずだ。人々の愛おしい記憶を呼び覚ましたり、夜明けを感じさせる力を持った作品に携わったいま、池松は映画の可能性についてどのような実感を持っているのだろうか。
「映画が記憶を物語るものだとするならば、世界中がコロナという痛みを負った時に、一体なにを記憶として残していけるのか?ということが、物語や映画の持つ可能性だと思っています。悪いほうにばかり解釈することだってできるし、夜明けを見つめることだってできる。それが映画の可能性であり、許容、懐の広さです。破壊、再生、維持ということを繰り返して世界は成り立っている。もうそんなに自由な時代ではなくなったいま、世界はどうやって再生に向かっていくのかを無視して映画を作ることには、いまは興味がありません。そういったことを考えながら、映画に向き合っていると思います」。続けて「いまはチャンス」だとも。「世界共通で、同じ痛みを負っている。パーソナルなものを描いたとしても、グローバルなものになる可能性がある」と語る。