富野由悠季総監督が読者の疑問に次々回答。『Gのレコンギスタ』映画化へのこだわりから制作秘話まで“富野節”炸裂!
「富野監督は昔から魅力的な老人のキャラクターを描いていらっしゃいます。『G-レコ』でもラ・グーなど多くの老人が活躍しています。監督が実際に80歳になってみて、若い頃に描いていた老人といまの老人のキャラクターの描写に変わりはありますか?」(40代・男性)
「変わりません。老人はそれほどバリエーションがないので、中年になったくらいから老人を描くことがそれほど面倒ではなかったんですね。ステレオタイプで描くことで事足りていたんです。むしろ、バラエティショーになるのは、なんだかんだといっても女性キャラなんです。本当に女ってのは化け物だから、描きようがいくらでもある。あるようでない。底抜けなんです。そういう意味で、素材として面白いし難しい。だから男はずーっと“女のハダカ”を描きたいんだ、という気がしています」
「また、実際にお爺さんになってみて、若い頃に考えていた老人像と現代の老人で違いはありますか?」(同)
「これも同じで、まったく変わりません。ここのところ古いものを調べているんですが、年寄りの目線はいつの時代でも同じ。老人は…、“まともな”老人は孫、ひ孫のことを考えるようになる。すると、近未来に対しての希望論を語ることしかできない思考回路になってしまう。ひとつだけ前に条件をつけましたよ。“まともな”老人は、です」
「富野監督にとって歳を取るとはどういうことでしょうか?私は現在大学生で、最近自分が歳を取ったんだなぁと感じることがありました。これから若さを失っても良い人生を送るためのアドバイスをいただきたいです」(10代・男性)
「歳を取るとは、ものすごく簡単なことです。墓場に向かって歩く。だから僕の場合で言えば、きちんと死んでいきたいと、きちんと思うようになりました。そして良い人生を送るには、年相応に自分が年を取っていく、老けていくのを自覚すればいいだけのことです。その自覚がなくなるから、底抜けにバカな政治家になったり、マーケットの拡大しか考えない経営者になったりするわけです。累進的にすべての物事が上昇していくという資本主義論はどこにもないと知るべきです」
「富野監督の作品には、人間と同程度の知能を持った人工知能があまり登場しない印象です。これは、監督が想定する未来・世界観において、その存在に必然性が感じられないからでしょうか?」(30代・男性)
「必要性は認めます。実は認めているんです。が、アニメという物語、ドラマをつくるうえで、主人公たち“キャラクター”がいるわけです。彼らは人工知能を持ったモノではない。キャラクターというのは日本語に訳すと“人物像”です。生身の人間のぶつかり合いがドラマなので、人工知能的なものを出す気にならない、ただそれだけのことです」
「ベルリはアイーダが姉だと知り失恋を経験しました。自分も5年前、同じ子に2度フラれるという経験をして未だに引きずっています。富野監督は失恋の経験はおありでしょうか?もしおありならそのときどのようにして吹っ切ることができましたか?」(20代・男性)
「恋をした自覚がきちんとあって、それに相手が応じてくれなかったというのが失恋ですよね?僕の経験でいうと、失恋は一生忘れられません。『あの人のことは忘れた』という言い方ができるのなら、それは恋をしていたわけではない。単なる男女の遊びごと…俗に言う色ごとでしかないんです。何度も言います。絶対に忘れられない。だからかなり覚悟がいるんですよ、恋をするって。恋が成就しなかったときは、1日中か3日間は泣き続けるしかない。それくらい過酷なものです。忘れる努力をしても無駄なので諦めましょう。泣き寝入りするしかないんです。
そして、それはきちんと自分の記憶として残しておいていいと思います。そのほうが、その人の人格を育てていくことになるからです。だから、相手を恨んじゃいけません。むしろ、失恋させてくれるくらいの人に出会えたのは幸せなことだと思ってください」
「本当は直接お会いになってお礼を申し上げたいのですが今回はこの場を借ります。『G-レコ』という作品で久しぶりにドキドキやワクワクを感じました。観ていて明るい気持ちになることができました。本当にありがとうございます。いつの日かお会いできることを楽しみにしています」(10代・男性)
「それは無理です。僕は近々死にますから(笑)」
取材・文/西川亮