菅田将暉と原田美枝子が明かす、『百花』で乗り越えた壁「向こうの世界に行く感覚を味わいました」
「原田さんのアプローチを目の当たりにするのは贅沢な時間でした」(菅田)
――原田さんは、若い時代の百合子を自ら演じるという挑戦もありました。
原田「私は現在60代ですし、百合子の40代のパートは別の俳優さんが演じると思っていました。ただ、同じ俳優でやったほうがおもしろいとも思い、監督に提案したら、すんなり受け入れられて…。監督に『60代と40代の違いは姿勢なんですよね』と言われ、40代を一瞬でも違和感なく見せるため、トレーニングを受けて臨みました。最初は演じきる自信もなかったけれど、いいチャンスをもらったと実感しています」
菅田「そういった原田さんのアプローチを目の当たりにするのは贅沢な時間でしたね。ワンカット、ワンカットでの集中力、現場での気概みたいなものは、常に伝わってきましたから」
――大先輩である原田さんの集中力を、菅田さんも受け止めながら演じたのですね。
菅田「俳優は集中力の放ち合いですから。劇中の関係も、僕が演じた泉という役は、母親の状況に一喜一憂するわけで、相手が能動的に来てくれると、こちらも受けないわけにいかない。ですから今回は、あらかじめ自分で準備するというより、原田さんの演技を受けるスタイルでした」
原田「撮影中、私は百合子の立場から泉を見ていました。母と息子の空白の時間、触れてはいけない関係性を作らなければならなかったので、そこに集中したのです。ですから撮影中は俳優としての菅田さんがどうだったのか、そこまで把握できなかった気がします」
菅田「芝居で会話をしているんですけど、その会話がちぐはぐになる設定でしたからね」
原田「そうそう。打った物が跳ね返ってこないで、常にすれ違ってる感じ。でも撮影から1年くらい経って、冷静な目線になって、いまこうして一緒に取材を受けたりしていると『菅田さん、なんかいい人!』って素直に感じてます(笑)」
菅田「めっちゃ褒めてくれますね。ありがとうございます(笑)」
原田「改めてファンになった気分です」
菅田「確かに撮影現場では共演した人の人間性までは、よくわからないですからね。こうして取材などで時間を過ごしていると楽しいです。ホッコリできるし、まじめに言いたいことも伝えられる」
「『これが最後でもいい』と、エネルギーを出し尽くした気持ちです」(原田)
――ハードな撮影、しかも特殊な関係性を演じたことで、お2人にとって『百花』はキャリアのなかでどのような作品になりましたか?
菅田「コロナで仕事が止まり、1か月くらい自宅で過ごす状態になっていた時に『百花』のお話をいただき、撮影に臨みました。この10年くらい、常にやっていた“お芝居”というものがなくなり、いままでのことを冷静に振り返っていた時期に、新たに現場へ行くことには漠然とした不安もありました。映画を撮っても本当に公開できるのか…などネガティブな感情にも支配されたんです。でも実際に行くと、芝居をすることに心の底から集中できて、そういう意味で重要な仕事になりました」
原田「私の場合、こうしてメインの役を演じられるチャンスは、この先そんなにないと思うんです。一生懸命演じて、『これが最後でもいい』と、エネルギーを出し尽くした気持ちです。私の母も認知症で、この映画の撮影が終わるちょっと前に亡くなりました。そういう意味でも特別な作品ですね」
菅田「ちょうど僕の祖母も認知症になり、僕自身の結婚というタイミングで、(演じた)泉と同じ気持ちを人生で初めて感じた時期でした。それを川村監督にも話したら『だからこそ菅田くんにお願いした』と言われたんです。僕自身の心の揺らぎが、完成作に反映された部分もあると感じています」
――では最後に、『百花』は“記憶”がテーマの作品ですが、お2人の俳優人生で忘れられない記憶があれば教えてください。
原田「子育てなどで忙しく、ちょっと仕事から遠ざかっていた時期に、『絵の中のぼくの村』という作品で主演女優賞をいただいたんです。『みんな私を覚えていてくれたんだ』と感激していた時に、『乱』の衣装を手掛けたワダエミさんから『一生懸命やっていると、どこかで誰かが見ていてくれるのよ』と言われました。現場を離れていても、しっかり人生を送っていれば誰かが私を見つけてくれる。勇気をもらったワダさんの言葉は忘れられません」
菅田「僕もいっぱいありますね。なぜか僕のステーキの切り方を褒めてくれた青山真治監督、演技における引き算を教えてくれた蜷川幸雄さんとの思い出…。そして、初めて『男はつらいよ』が公開された時のことを語ってくれた山田洋次監督。皆さん生活自体をエンタテインメントとしておもしろがっていたりして、そんな人たちの顔が浮かんできます」
取材・文/斉藤博昭