“小悪魔”として描かれ続けた1960年代のイットガール、カトリーヌ・スパークが本当に欲しかったもの
ちっぽけな自分を覆うお金なんかで自由は買えない
『狂ったバカンス』では、フランチェスカが馬の背に乗って走り去っていくシーンが印象的だった。その後、彼女が演じるヒロインは自分で自分の人生の手綱を握るために、男たちを“乗り物”として考えるようになったのかもしれない。『禁じられた抱擁』(63)で彼女が演じるセシリアは、画家を志ながらブルジョアの母親に金銭面で依存している若者をたぶらかす、やはり“小悪魔”の若いモデル。でも現代の観客には、男性の視線によって作られたミステリアスなヒロインの本当の姿が見えるはずだ。
彼女は年老いた画家を夢中にさせた挙句、死に導いたファム・ファタールとして描かれている。だけどセシリアは貧しい両親から画家に手渡されたのも同然の身なのだ。圧倒的に不利なゲームにおいて彼女が持ち駒を使ってなにが悪いのだろう?主人公のディノにはそれがわからない。結婚による安定やお金を餌に彼女を必死につなぎ止めようとする。裸身のカトリーヌ・スパークが紙幣に包まれるシーンの背徳的な美しさが話題の映画だが、ちっぽけな自分を覆うお金なんかで自由は買えないとセシリアにはわかっている。そこが悲しくて、なにより印象的だ。
「性に目覚めた天使が革命を起こしただけ」で彼女は「勇敢な女性」なのだろうか?
『禁じられた抱擁』には男に馬乗りになるセシリアを描いた絵が出てくるが、そのイメージが現実となるのが『女性上位時代』(68)である。カトリーヌ・スパークが演じるのは夫に先立たれた若い未亡人ミミ。彼女は夫が隠し部屋で情事に勤しんでいたと知り、がっかりする。セックスにおいても彼女はパートナーと対等な関係ではなかったのだ。それをきっかけに様々な男たちと関係を持ち、性の冒険に乗り出していくミミは男性に取って都合のいいエロティックな妄想の産物なのだろうか?それともジャン=ルイ・トランティニャン演じる放射線科医の言うとおり「性に目覚めた天使が革命を起こしただけ」で彼女は「勇敢な女性」なのだろうか?
カトリーヌ・スパークの演じるヒロインは、観客に白黒つけさせないような複雑なところがある。物語はいつも彼女が主導権を握っていて、ミミも男たちに決して踏み込ませない領域がどこかに残っている。SM趣味のひどい男にたまたま遭遇したとしても、それは冒険の一部だから彼女の魂には傷がつかない。あの冷たい笑顔で経験に変えていく。でもトロヴァヨーリのお洒落なサウンドトラックに乗って、カラフルなドレスやベビードール、ランジェリーでセクシーに遊ぶ彼女は、いつになく明るい。彼女はようやくゲームを楽しむことを覚えたのだ。トランティニャンに馬乗りになるカトリーヌ・スパークは、馬の背に乗って自由を模索していた『狂ったバカンス』のヒロインが欲しかったものを手にしたのかもしれない。
文/山崎まどか