カリスマと文学性を持つKing Gnu井口理、主演作『ひとりぼっちじゃない』に見る“俳優”としてのポテンシャル
行定勲監督の『劇場』(20)。カリスマ的な劇団主宰者を演じた井口理は、ほかの出演者とはまるで違う異彩を放っていた。主演の山崎賢人と松岡茉優が、かなり作り込んだ芝居だったこともあるかもしれないが、井口はなにもしないでただそこに居ることそれ自体が存在感となって、観る者のシコリになるような趣があった。
彼がミュージシャンとしてカリスマ性があるから、かどうかはよくわからない。King Gnuの楽曲は何曲か聴いたことがあるが、井口のパフォーマンスについては全く知らない。だから、これから書こうとしているのは、あくまでも俳優としての井口理について、だ。
井口理に漂うカリスマが持つ“無意識の黙殺”
仕事柄、カリスマと呼ばれる人たちに何度もインタビューしてきた。多少の違いはあるものの、ほとんどのカリスマは、自分のカリスマ性に無頓着であり、カリスマとして崇拝されることを無視している。無意識の黙殺。無我の鮮やかさ、すこやかさがあって、そのフォームは明るい異形だ。
『劇場』の井口には、この真のカリスマにしか持ち得ない無意識の黙殺が敢然と漂っており、ごくわずかの登場であるにもかかわらず、私たちを圧倒した。主人公の山崎が嫉妬する対象であることが痛いほど、よくわかった。しかし、嫉妬される側はなにも感じていないのだ。あの屈託のない黙殺には、静かで決定的なリアリティがあった。
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『ひとりぼっちじゃない』に見る俳優、井口理の表現者としての真価
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