和洋が混じりあう時代の独特な美とときめきを体現。『わたしの幸せな結婚』を少女漫画研究家がレビュー
明治~大正期をモデルとしたマンガには名作が多い。古くは大和和紀先生の「はいからさんが通る」、「ヨコハマ物語」、近年では斎藤けん先生の「天堂家物語」、久世番子先生の「パレス・メイヂ」、高浜寛先生の「ニュクスの角灯」、日高ショーコ先生の「日に流れて橋に行く」などなど。そういえば「鬼滅の刃」も大正時代という設定だった。
少年、青年マンガには多数ある歴史ものだが、少女マンガとなるとその数はぐんと少なくなる。かつて「ベルサイユのばら」を描く前の池田理代子先生が、編集者に「歴史ものを書きたい」と相談したところ、「過ぎた歴史のことを取り上げてなにになるの」などと言われたという。なんたる暴言!だがしかし、そんななかにあってフランス革命期と明治~大正時代が特権的に広く描かれているのは、前者には「ベルばら」が、後者には大和和紀作品があったから、という歴史的事実は無視できないだろう(さらに言うならば大和和紀先生は「あさきゆめみし」で平安時代ものの普及にもひと役買っている)。
もちろんひと口に「明治~大正期」と言ってもそこには60年弱もの大きなグラデーションがある。陰惨な政争があり、大きな自然災害があり、そしていくつかの戦争もあった。時代が大きく移ろいゆくなかでは、心揺さぶるエモーショナルな物語を描きやすいのかもしれないし、そしてなにしろ和と洋が混じりあい始めた時代の独特な美しさは、なによりも絵になるのである。
“大正ロマンの代名詞”軍服を見事に着こなす、目黒蓮の存在感
まがりなりにもマンガの専門家である私は、本作『わたしの幸せな結婚』(公開中)もまずはマンガ版を読み、そうした系譜に連なる作品だと強く感じた。映画版の撮影は三重県の専修寺と六華苑などで行われたそうだが、和と洋が混じりあい始めた時代の独特な美しさを湛えた画面は非常に魅力的であった。主人公である若き軍隊長、久堂清霞(目黒蓮)の軍服姿は、マンガ版や映画版ならではの大きな見せ所のひとつだろう。「ベルばら」や「エロイカより愛をこめて」以降、私たちマンガ読みは、美男美女の軍服姿にことのほか弱いということが判明している。そうした伝統を本作も確実に受け継いでいることに、中年マンガ読みとしては喜びを禁じえない。映画版においてそれを具現化するのは目黒蓮だ。この時代の日本にこんなにもスタイルが良い男はいないだろうとは思うのだが、そうした異物感こそがむしろこの役の本質であり、モデルとしても活躍する目黒はまさに適任であっただろう。特に後ろ姿が良い。
対するヒロインを演じるのは今田美桜。朝ドラ「おかえりモネ」のマリアンナ役などでお見かけしたことはあったが、正直こんなにもすばらしい役者だとは思ってもいなかった。昔話の時代からおなじみの「継子話」でもある本作において、継母と異母妹から虐待され、自尊心を失った令嬢という難しい役柄を、そこから解放されるプロセスも含めて、繊細な感情表現で見事に演じきった。冒頭、密やかに登場するその姿を、多くの人は今田だと認識できないのではなかろうか。そのどん底の状態から、階段をひとつひとつ上がるように、彼女は本来の快活さを取り戻して行く。
なかでも見事だったのは料理や手芸の所作だ。小松菜の筋を取る様、厚揚げを炙る様。完成した朝食がいかにもおいしそうであった(ぶ厚い卵焼き!)ことも相まって、彼女がどのような生活を送ってきたのか、虐げられ続けてきたその生活の中でいかに努力してきたのか、そしてどれだけの誠意を込めてこの食事を作ったのかが、痛切なほどに伝わってくる名シーンであった。組紐を作る手付きには確かな感情があり、薬缶から急須へと湯を注ぐ様子は自然で、甘味処であんみつを頬張る姿はなんとも愛らしい。
そんな今田を支える女たちとのシスターフッドも本作の見どころのひとつだ。映画版では女たちの関係性が特に細やかに表現されている。山本未來演じる久堂家の手伝い人、ゆり江とのシーンは、思いやりにあふれており、陰惨な場面の多いこの映画の中にあって、一服の清涼剤となっている。ゆり江は登場した瞬間から明らかに感じがよく、世界に一筋の光が指すのを多くの観客が感じることだろう。小林涼子演じる斎森家の元使用人、花との再会のシーンは感動的だ。ここでは同時に周囲の人々の優しさも表現されており、作中もっとも幸せな時間が流れていく。