危険で魅惑的な娼館の世界へ女性小説家が潜入…映画『ラ・メゾン 小説家と娼婦』が描く“彼女たちが娼婦になった理由”

コラム

危険で魅惑的な娼館の世界へ女性小説家が潜入…映画『ラ・メゾン 小説家と娼婦』が描く“彼女たちが娼婦になった理由”

“娼婦”か“処女”…極端な二項対立によって切り裂かれてきた女性のイメージ

女性客と官能的でリッチな時間を過ごすエマ
女性客と官能的でリッチな時間を過ごすエマ[c] RADAR FILMS - REZO PRODUCTIONS - UMEDIA - CARL HIRSCHMANN - STELLA MARIS PICTURES

女性の身体を悦ばせる技術を学びにきた客に対して、エマは心から親身になって調教を施す。「レズビアンではない」と話す珍しい女性客とは、官能的でリッチな時間を過ごす。娼館での時間は、エマにとって決してお金や調査のための身を犠牲にするものではない。しかしもちろん、セックスワークの世界に限らない、私たちとつねに薄皮一枚で隣合わせにある危険もエマ・ベッケル、そしてボンヌフォン監督は過小評価していない。前半パートにあたるカルーセルの場面での最後も、後半パートにあたるラ・メゾンの場面の最後も、共に暴力によって結ばれている。カルーセルのバーカウンターや恋人と過ごす公園などでふいに画面に招き入れられる人間の形をしたオブジェは、セックスワークがある部分においては女性の身体を商業的にモノ化していることを絶えず観客に思い起こさせるだろう。

カルーセル、ラ・メゾン共に最後に描かれるのは暴力…
カルーセル、ラ・メゾン共に最後に描かれるのは暴力…[c] RADAR FILMS - REZO PRODUCTIONS - UMEDIA - CARL HIRSCHMANN - STELLA MARIS PICTURES

凡庸極まりない価値観は女性を“娼婦”と“処女”に分け、女性のイメージはそうした極端な二項対立によって切り裂かれてきた。しかし男性目線は“娼婦”と“処女”を別々の女性に割り振って扱うだけではない。例えばマーシャル・ハースコヴィッツ監督作『娼婦ベロニカ』(98)の、母親から教養を身につけるよう教育されて詩人でもあった高級娼婦ベロニカ・フランコが、その聡明さと容姿の美しさによって男性たちを虜にしてゆくように、知性と性的魅力を兼ね備えた女もまた、ある種のフェティシズムの対象になりうるかもしれない。女性のイメージの二分化は知性と性的魅力をそれぞれかけ離れたものに位置付けるがゆえに、あるいは性的魅力の迸るような女に知性などあるはずがないというバイアスがあるゆえに、それらを同居させる女性はフェティッシュ化されもする。最終的に魔女裁判にかけられてしまうベロニカとは違い、現代に生きるエマは無論、魔女扱いされることはないが、作家でもあり娼婦でもあるという二重のラベリングを背負う彼女がメディアから消費の的にされるのは想像に難くない。

娼婦になる理由には欲望や動機の複雑なモザイクがある

長い期間、娼館へと潜入調査を行ったエマ
長い期間、娼館へと潜入調査を行ったエマ[c] RADAR FILMS - REZO PRODUCTIONS - UMEDIA - CARL HIRSCHMANN - STELLA MARIS PICTURES

妹が「作家じゃなくて娼婦のレッテルを貼られる」とエマを諭すように、“作家”よりも“娼婦”のほうがよりセンセーショナルで引きがあるために、恐らくエマはその後も娼婦の作家として名指され続ける可能性が高い。それでもエマは、魅惑的な娼館の世界へと足を踏み入れるのを止めることなどできなかったのだろう。女性がセックスワーカーになる理由には欲望や動機の複雑なモザイクがあるのだというメッセージを、『ラ・メゾン 小説家と娼婦』は伏在させている。エマは“同情”だけでなく、「自分で選んだ人の話も聞くべき」と妹と同様に心配し続ける親友に話す。その言葉はそのままきっと、この映画の存在理由でもあるかもしれない。重要なのは外にいる人間が勝手になにかを語るのではなく、当事者たる彼女たちの声に耳を傾けることなのだから。『ラ・メゾン 小説家と娼婦』はエマのこちら側を見つめるカメラ目線によって始まり、カメラ目線によって終わる。それはこの話が果たして“バカなこと”かどうかを、挑発的に私たちに問いかける。

女性がセックスワーカーになるのには複雑な理由がある
女性がセックスワーカーになるのには複雑な理由がある[c] RADAR FILMS - REZO PRODUCTIONS - UMEDIA - CARL HIRSCHMANN - STELLA MARIS PICTURES

文/児玉 美月