福士蒼汰×松本まりかが『湖の女たち』で辿り着いた、役者としての新境地。「自我から開放され、ゾーンに入るような感覚」
「その場で生まれた感情に従ってお芝居をしていたように思います」(福士)
――『湖の女たち』は、お2人にとってどのような位置づけの作品になりましたか?
福士「僕はこれまでエンタテインメント性の高い作品に出演することが多かったですし、僕の原点でもある『仮面ライダー』のようなアクション作品のほうが得意で、そういうお芝居をしている自分も好きなんです。でも今回、その対極にあるかのような、『湖の女たち』の世界を知れたことで、自分で“潜る深さ”を調節できるようになったというか。より自由になった感覚があります。というのも、松本さんは、次にどんな動きをするのかまったく想像がつかないんです。それが今回の撮影のなかで、すごく刺激的でおもしろかった」
――台本があっても、演じているお2人さえ、先の読めない瞬間があるということですね。
福士「セリフは決まっているけど、監督には『自分のタイミングで動いて』と演出していただいていたので、次に佳代がなにをしだすのかわからない。普通なら座りそうなタイミングで座らなかったり。僕はその動きを見て、その場で生まれた感情に従ってお芝居をしていたように思います」
松本「確かに、おもしろかった。あまりお芝居を固めてはいかないから、置かれた状況のなかで、『次に自分はどう動くのか自分の感覚を信頼してみよう』みたいな感じだったかもしれないです。実際にその場所に立った時、圭介の目を見たくなるのか。それともならないのか。お互いの腹のなかをリアルに探りながら、言葉を発することなく、『次どうする?』って。無言で駆け引きしているような感覚。静かでアツい攻防戦が繰り広げられていましたよね」
「監督から信頼されていると思えるからこそ、クリエイティブな状態でいられる」(松本)
――必ずしも“支配する側”“される側”という一方向の関係性だけではなくて、時にそれが逆転する瞬間すら、あったようにも見えました。
松本「そうですね。ただ単に、佳代が圭介に支配されるだけじゃなくて、むしろ佳代のほうから『支配してよ』って、圭介にけしかけるような場面っていうのもあったかもしれない」
福士「確かに圭介も、佳代に“支配させられて”いたのかもしれません。お芝居をするにあたっても、ただ言われた通りに動いてセリフを交わすだけでは、自分自身のクリエイティビティを十分に発揮できている状態とは言えないと思いますが、反対に、あまりにもなにも言われないと、『本当にこれでいいのかな』と、あたまで考えすぎてしまうようなところもあって…。要は、脳みそを通さずにただ動くという、大森監督が求める塩梅が本当に難しいんです。そういう意味では、あの時の僕にあの目ができたのも、あの状態の“佳代”が目の前にいてくれたから。もう二度と同じ目はできないのだと思います」
松本「役者のなかからおのずと出てきたものであれば、たとえどんな表現であったとしても、なにひとつ否定することなく、すべて受け入れてくださる。そういった(大森)立嗣さんの演出方法は、俳優やスタッフのポテンシャルを最大限まで引き出してくれる本当にすばらしいものだと思います。それって、おそらく誰にでもできるというわけでもなくて…。もともとそれを持っている人が、その境地にまでいたれる状態であるということが、すごく重要なんです。自分は監督から信頼されていると思えるからこそ、クリエイティブな状態でいられる。今回の現場では、私自身は身動きできないくらいずっとガッチガチの状態でいたんだけど、全部取っ払った、いまの状態の私と福士くんで、あのがんじがらめの2人をやったとしたら、いったいどんな佳代と圭介になるのかな…?って。ちょっと興味もあったりするんですよね」
福士「いまの僕と松本さんが、大森監督の下でもう一度『湖の女たち』を撮り直したとしたら、きっといまとはまた全然違う、圭介と佳代になると思います」
取材・文/渡邊玲子