『お引越し』『夏の庭 The Friends』4Kリマスター版が公開中!没後23年を経ていまなぜ相米慎二監督作は世界で評価されるのか
「役者が映画をつくる」ことを信じる
相米作品には1本として正調な、整った完成品はない。奇をてらうのではなく、映画だからこそ表出させられる「奇なるもの」を最初っから狙って、掴み取ろうとしている。物語はそのためのステップボードになる。従って、歪な展開に陥ったり、「なぜ映画でなければならないのか」を自己証明しようと一種無謀な撮り方を推し進め、困惑させることも。だが観る者に「自分はいま、しかと相米作品と対峙している」と強く意識させる醍醐味もまた特性で、その奇矯な魅力はたびたび、賛否が分かれたのだった。
賛否と言えば、相米組の現場の伝説的な過酷さも挙げられる。撮影所システムが十全に機能しなくなっていく中で、リハーサルを繰り返して役者をギリギリまで追い込み、プロフェッショナルなスタッフたちにも無茶振りをし、底力を引き出して結集させていく方法論はやがて、90〜00年代には許されなくなってゆく。なおも相米組を愛し、反面、本読みやリハーサルを独自にアップデートさせた代表格が先の濱口竜介監督だが、取材の場で筆者に「相米監督にはアンビバレントな気持ちを抱いている」と語ったことがある。いつの間にやら自分の心に棲みついてしまった相米慎二は「お前の考え、やろうとしている意図は分かるけれど、それっておもしろいの?」と問いかけてきて、反発しながらも対話をしている」のだと。そう。この世を去っても、存在を意識せずに映画を撮る日本の映画作家はいないのである。
彼がリハーサルを何度も繰り返し、容易な答えを与えず、現場でひたすら待ったのは「役者が映画をつくる」ことを信じていたからだろう。スタッフに対しても。グラデーションはあるが、相米組を経験した者は皆、とんでもないエピソードからは考えられぬ、親密な言葉を捧げている。誰であろうと尋常ではないポテンシャルを引き出し、“生の本質”が宿ったシーンを念写させた男――人ったらしであり、こりゃあ並外れた「映画たらし」だ。
文/轟夕起夫