『火垂るの墓』放送に合わせて読みたい!藤津亮太が高畑勲監督のアニメ演出を分析
高畑勲監督が4月5日に肺がんで亡くなって一週間。国内外から哀悼のメッセージが発信され、今夜21:00からの「金曜ロードSHOW!」では急遽、監督の代表作『火垂るの墓』(88)が放送される。日本アニメーション・映画界に多大な影響を、そして感動を与えてくれた高畑監督は、ほかにも偉大な作品を多く遺してくれた。そうした作品群について知ることで、高畑監督の理解もより深まるはずだ。アニメ評論家・藤津亮太氏に「高畑勲監督が貫いた、アニメ演出におけるルポルタージュ性」をテーマに独自の視点で寄稿してもらった。
普通の人を普通に描き、社会をも映しだす
「母をたずねて三千里」(76)『かぐや姫の物語』(13)などで知られるアニメーション監督の高畑勲が5日、死去した。
高畑監督は英雄を描かなかった。
例えば『平成狸合戦ぽんぽこ』(94)。タヌキたちが、自分たちの生活の場を守ろうとする闘争を描いたこの作品は、ヒロイックに描こうと思えばいくらでも描ける要素が揃っている。でも、英雄は登場しない。どのタヌキも、長所と欠点が裏表一体の“人間くさい”存在ばかりで、その“人間くささ”故に敗れていく。高畑作品が描いたのはいつも普通の人ばかりだった。
普通の人を普通に描く――ということは、“私”や“私の隣人”にカメラを向けるということである。そこには“私の人生”があり、同時に“私の人生に映り込んだ社会”がある。作品は必然的にルポルタージュの色合いを帯びる。高畑監督は『おもひでぽろぽろ』(91)の原作の魅力のひとつに、10歳児の心象や体験をすくい取っているルポルタージュ性を挙げているが、このルポルタージュ性は多くの高畑作品にも通底している。
ひたすらにさまよい続ける少年マルコの軌跡を追った「母をたずねて三千里」(76)も、“定点カメラ”で少女の成長を追い続けた「赤毛のアン」(79)も、どちらもルポルタージュだと考えるとより作品がわかりやすくなる。『火垂るの墓』(88)の、「妹ぐらい自分で養える」と考えた14歳の純粋な傲慢さを、冷静に見つめる視線もとてもルポルタージュ的である。
アニメにおける「当たり前」を確立した高畑監督
高畑作品というと、徹底した調査とそれを踏まえた画面づくりが話題に出ることも多い。『おもひでぽろぽろ』の「ひょっこりひょうたん島」(64-69)が登場するシーンでは、当時の振付師を探し当てて、当時どんな振り付けだったかを確認して映像化したという。制作上のこだわりのエピソードに見えるが、これもまたルポルタージュ性と深い関係がある。
普通の人が普通に見えるには、まず世界が、観客にとって本物と感じられる必要がある。この「本物らしさ」は作品によって塩梅が異なるが、この世界の本物らしさという土台の上に、キャラクターの存在感は成立しているのである。作中に「ひょっこりひょうたん島」が出てくるのであれば、それはそのまま「ひょっこりひょうたん島」でなくては、作中の1966年は“本物”にならない、そうでなくてはルポルタージュが成立しないのである。こうした取り組みは、アニメ史上初の海外ロケハンを行った「アルプスの少女ハイジ」(74)の時から連綿と続くものだ。
このような、作品世界のリアリティを背景にキャラクターの存在を実感してもらおうという手法は、今では広く普及してしまった。もしかするとこうして説明をしても、「何を当たり前のことを」と思う人がいるかもしれない。だが、高畑監督はその「当たり前」を作った人間なのである。
たとえば「ハイジ」に絵コンテで参加していた富野由悠季(当時・喜幸)監督の「機動戦士ガンダム」(79)にもこうした作品構築の影響を見ることはできる。あるいは京都アニメーションの諸作品にも、このDNAを見つけることは難しくない。