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『火垂るの墓』放送に合わせて読みたい!藤津亮太が高畑勲監督のアニメ演出を分析

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『火垂るの墓』放送に合わせて読みたい!藤津亮太が高畑勲監督のアニメ演出を分析

『となりの山田くん」で描いた、世紀末を超えた先の日常性

こうした普通の人のルポルタージュとして究極とも言える一作が『ホーホケキョ となりの山田くん』(99)だ。

どうして『となりの山田くん』は成立したのか。

宮崎駿監督は『おもひでぽろぽろ』について、「平和な世界で等身大の主人公を描くという映画は『おもひで』で究極を極めてしまった。今、時代も転換点を迎えつつある。これからは時代の転換点を切り取るような映画を作らなくてはならないが、具体的にどうすればよいか私たちはつかんでいない」という趣旨の発言をしている。ここで言われる「時代の転換点を切り取るような映画」が、世紀末的な混沌を描いた『もののけ姫』(97)に結実したというのは想像にかたくない。

そして『もののけ姫』の2年後、新世紀を見据えた1999年に発表されたのが『となりの山田くん』だった。

『ホーホケキョ となりの山田くん』より
『ホーホケキョ となりの山田くん』より[c]1999 いしいひさいち・畑事務所・Studio Ghibli・NHD

『となりの山田くん』は、普通の人々の様子をスケッチすることで、世紀末を越えた先にある日常性を祝福する作品だった。ある意味、そこでは「普通であること」そのものがテーマとなっており、そういう意味でも普通の人のルポルタージュとしては究極の一作といえるのだ。

しかし、公開から20年が経とうとする今、山田家の人々のような「普通の人」という概念を成り立たせてきた基盤(それは「戦後」とも「20世紀」とも言える)は、いい意味でも悪い意味でも、壊れつつある。基盤がなくなってしまえば、普通の人という仮構も成立しない。偶然とはいえ『かぐや姫の物語』(13)が現代ではなく民話的世界を題にとることで、逆説的に現代の普通の人の生きづらさを浮かび上がらせる形になっていたのは必然といえる。今は普通を普通として描くのが難しい時代なのだ。

【写真を見る】在りし日の高畑勲監督
【写真を見る】在りし日の高畑勲監督撮影/山崎伸子

それだけに今見返す『となりの山田くん』は、日本のある時期の夢を体現して、坂の上の雲のようにぽっかりと美しく輝いているのだ。

高畑勲監督のご冥福をお祈りいたします。

文/藤津亮太

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