紗倉まなが綴る異性への失望と女性としての覚醒【映画『エリカ38』特別コラム】
父親に抱いていた淡い願望が失望へと変わった瞬間
私にも恥ずかしながら似たような経験があって、どこか自分を投影してこのシーンを観ているところがあった。生まれて初めて出会った異性でもある父親。「父親はこうあるべきだ」というよりかは「父親だからこそ、こうあってほしい」みたいな願望や期待を子どもながらに強く抱いてしまっていたところがあった。
私が自分の父親の浮気を知り、再婚したことを聞いたときはやはりどこか失望をした。そして性に抗うことができない本能的な父の衝動は、私の微かな異性への希望を潰したりもした。とはいえ、その失望をもって、改めて肉親を一人の人間として切り離すこともできたのだ。それが良い経験だったのか、未来の選択を変えるきっかけになったのかと聞かれれば、正直よくわからない。
女という武器は、一度、異性に対して猛烈に絶望しなければ絶対に扱えないもの
この世には男も女もいなくて、性なんて振り払えればいいのに、と当時の私は何度も願った。肉体的特徴が女であったから生まれた瞬間に“女”と分類されて、女と自覚してしまったがゆえに、そんな自分と別れられなくなってしまったことにもがいた夜もあった。
だからこそ思う。女という武器は、一度、異性に対して猛烈に絶望しなければ絶対に扱えないものなのである。エリカの自由奔放さを支えるのは、もしかしたら、一度父親に突き落とされた絶望なのかもしれない。
エリカと母親のユニークな関係がささやかな救いに
それに対して、エリカと母親の関係はなかなかユニークなのがまた良かった。亭主関白な父親を憎く思っている2人が、味噌汁に誤って殺鼠剤を入れて笑い合うところとか、親子としてではなく、同じ女性として生きる連動を感じる場面でもあった。「一緒に死のうか」と娘に尋ねられたのに「いいわよ、私は」とあっけなく断り、童謡の「赤とんぼ」を歌いながらマニュキュアを平然と塗り続けるエリカの母からは、もう女性であることからいち抜けして、背負うものをできるだけ軽く、自分の存在をできるだけ重くしようとする余裕すらも感じられて可笑しかった。温かいのか冷たいのか、一見わからない母娘の温度感は、この映画を観ているなかでの救いのようでどこかほっとしたのだ。
「このままではまだ終わらない」エリカの笑顔に垣間見る強い意思
何より、浅田さんの演技の “かわいらしさ”はやはりすごかった。「そうだよね」と発する時の声の甘美さや、男性をしつけるような言葉選び、吐息や、豪快に笑ってポルシェを叩くところとか。幼少期の頃、抵抗する間もなく刺し続けられた棘を、ここぞとばかりに抜いていくように、生き方自体も豪快になっていくアクティブな様は、観ていて気持ちが良い。ファンデーションの厚みと共に歳を重ね、「綺麗」よりも「かわいい」と言われるほうがうれしくなっていって、さらに心も体も柔らかみを帯びていく女性の進化は、最後にどこへいきつくのだろう。「このままではまだ終わらない」、そう言わんばかりのエリカの最後の表情に差し込まれた希望の光が、彼女自身を照らしてくれることを願うばかりである。
文/紗倉まな 構成・文/編集部