ドラマとドキュメンタリー、二つの切り口で見つめる“戦場カメラマン”の生き様
フィクションとドキュメンタリーの可能性と限界を考えるきっかけにも
では、作り手たちはどういった想いを胸に、各々のフォーマットを選んだのだろうか。それを紐解く糸口となるかはわからないが、例えば、国際的な受賞を重ねる写真家であり、ドキュメンタリー作家でもある『南スーダンの闇と光』のベン・ローレンス監督にとって、本作が初の長編フィクションにあたるという事実は特筆しておくべきだろう。
その着想のきっかけは、とある1枚の紛争写真だったという。そこには銃を突きつけられた男の姿が収められていた。目にした瞬間、ローレンスの胸中には「この撮影後、被写体の人物は一体どうなったのだろう。そしてこの写真家も、その後、どんな日々を過ごしているだろう」という疑問が膨らんでいったそうだ。
つまり、これまで数々の現実をドキュメンタリーとして映像に捉えてきた彼が、今回は現実を超えた“その後“を描きたいという衝動に見舞われたわけだ。イマジネーションを働かせ、1つの可能性や起こりうるかもしれない希望の胚芽にしっかりと目を向けること。これはドキュメンタリーには描くことのできない、いわゆる“フィクションの力”とも呼ぶべきものである。
では逆に、フィクションが決して到達できない境地とはなにか。数々のドキュメンタリー作品で高い評価を受けるボリス・B・ベアトラム監督にとって『戦場カメラマン ヤン・グラルップの記録』は、近年手掛けてきた『Diplomacy』(08)、『The War Campaign』(13)に続く、国際紛争をテーマにした3部作の最終章にあたるそうだが、我々は本作の圧倒的なリアリティを前に、ただただ映像を食い入るように見つめるほかない。というのも、本作の撮影監督たちは銃弾が飛び交う戦地にまでグラルップに同行し、尋常ではない緊迫感と死の恐怖をカメラに刻印しているのだ。
かと思えば、ひとたび戦地を離れるとグラルップは父親の表情になる。彼の家庭人として実にフォトジェニックで魅力的なところなども、まさにドキュメンタリーだからこそ色濃く伝わってくる部分と言える。この寄せては返す二段構えの構成が、一人の男のパーソナリティを絶妙に形作っていく。
ただしもう1つ、我々が肝に銘じておくべきは、ドキュメンタリーだからと言って、被写体がすべてを語ってくれるわけでもなければ、すべてを撮らせてくれるわけでもないということだ。表向きにはわからないが、きっと本作にも描かれていない部分、カメラが向けられていない部分、あるいは編集によって削ぎ落とされた部分は少なからずあるはずなのだ。
どちらのフォーマットも決して万能ではない。だが紛れもなく各々の監督がベストな選択肢として選びとった方法論である。それを受け取る我々としては、その特色や限界を見極めながら味わうことこそ、ドキュメンタリーとフィクションの“見比べ”における重要な部分と言えるのかもしれない。
いま、戦場カメラマンを題材にした作品を鑑賞する意義
本来、映画祭は、国内外の作品が一堂に会し、それらを浴びるように鑑賞できる絶好の機会である。そこには我々が意識したことのない気づきがあったり、どれだけ旅してもたどり着けない世界の果てが描かれていたり、またそこに息づく人々の営みがあったりする。
だが、残念なことにコロナ禍となったいま、私たちは日々の生活で手一杯。さらに移動自粛などもあって“世界”という概念がすっかり意識から遠のきがちとなっている。この状況はまだしばらく続くことになるだろう。しかし、戦場カメラマンを題材にしたこれらの2作は、少なくともこの映画祭の一つの視座となって、世界を見つめ、なおかついまもどこかで悲劇が続いている現状へ思いを馳せるきっかけと原動力を与えてくれるはず。
残念ながら今年は皆が会場に集うことは叶わないものの、PCやスマホの画面からぜひ世界へ向けての扉を思い切り開け放っていただきたい。そして、戦場カメラマンたちの生き様や仕事ぶり、はたまた彼らが伝える現実や関係性のドラマを通じて“思いを馳せる力”や“共感する力”を取り戻してほしい。そうやって意識の中だけでも世界を旅し、人々との交流を深めることこそ映画祭の醍醐味であり、大切な使命でもあると思うのだ。
文/牛津厚信