イザベル・ユペール×濱口竜介監督対談をロングバージョンでお届け!“演じること”と“撮ること”「私たちは映画によって動かされる」
「“演劇の演技”を理解するために取り扱っている」
ユぺール「濱口監督の映画を観て、演劇が深く関わっていることに興味を持つと同時に、とても疑問に思いました。両者はまったく異なる世界で、映画のなかにあれほど演劇を取り入れることはない。『ドライブ・マイ・カー』では『ワーニャ伯父さん』が出てきて、最後の解決策となるシーンにチェーホフの精神が返ってきている。これほど強く演劇からインスピレーションを受け、持ち込まれているのはなぜなのでしょうか?」
濱口「それを聞かれると困ってしまうのが正直なところですが、私自身、演劇のことは正直よくわかっていないのです。映画と演劇の演技がどう違うのかもよく理解していない。むしろそれを理解するために取り扱っているような気がします。『ドライブ・マイ・カー』の時に考えていたのは、演劇の演技が存在すると考えないことです。これは映画であり、ここでやるのは映画の演技。ただ彼らは舞台空間のなかに置かれていたり、カメラだけが影響力を与えているわけでもない。映画と演劇の両方の演技の混合体みたいなものができていると思いました。ユペールさんは両者の違いをどう考えていますか?」
ユぺール「私の場合は映画と演劇、両者の演技に違いを感じていません。演劇そのものが変化し、観にくる観客たちも変化してきました。いまの観客たちは映像を見ています。それにいまでは演劇でも大きな声で話さなければいけないとか、声を響かせなくてはいけないという状況もなくなりました。そういう意味で違いは無くなってきたと思います。演劇の場合、カメラがなくても観客の視線がそこにあります。わざわざある種の演劇性を作りださなければいけない理由もないのです。また、古典を演じる時でも、その戯曲にあるテキストを信頼し、最も自然に感じられる方法を演技にもたらすことを考えています。自然を追求したからといって言語そのものの美しさを伝える妨げにはなりません」
「カメラを回し始めたらすばらしいことは起きなくなってしまう」
濱口「ところでユペールさんはホン・サンス監督と仕事をされていますが、伝説として当日の朝に脚本が渡されるという話や、非常に自由に映画づくりをされていると聞きます。ホン・サンス監督の現場はいかがでしたか?」
ユぺール「私に撮ってホン・サンス監督の映画に出たことは、これまでの経験で最も情熱を掻き立てられるようなすばらしい経験でした。とてもユニークで、彼にしかできない方法で1000%の映画に仕上がる。彼は俳優よりも前に場所を選ぶのです。そしてこの場所に来たいかと私に訊ねました。そこから漠然としたストーリーを考えていくのです。シナリオはないけれど、その場所についての情報を充分に与えられているから想像力が働き始め、私はその場所についての夢を見始めます。撮影期間はたった9日間でした。とても短い撮影期間ですので、即興が多くテイクの数が少なく思えますが、実際はその逆でした。そうしているうちに映画の力が強くなり、まったくオーガナイズされていなかったように見えていたなかに映画の力が立ち上がってくるのです。本当になににも似ていない、映画の力を強く感じました」
濱口「『3人のアンヌ』も『クレアのカメラ』も、これまでのユペールさんが出演した作品のなかで純粋に、可愛らしいく素敵なユペールさんが映っていると感じました。いまのお話を聞いて、いつかそんな境地にたどり着けたらどれだけすばらしいかと思いました」
ユペール「濱口監督の映画を観ていると、あまりにも真実で自然な印象を受け、果たしてカメラは回っていたのだろうかと思うことが何度もあります。もちろん映画ですから回っているはずなのですが、カメラを回し始める時にアクションを掛けるのでしょうか?また即興をさせたりするのでしょうか?」
濱口「即興に関してはずっと興味を持っていますが、まったく違う方向に飛んでしまう危険があるので、やったことはありますがしっかりと採用することはできていません。モーリス・ピアラ監督が仰った通り、カメラを回し始めたらすばらしいことは起きなくなってしまう。ただカメラは映画を撮るための必須条件。それを受け入れ、我々は撮っていてあなたたちは演技をしている。我々がやっていることは作り事でしかないと全体で共有すること。不可能だと分かっていれば、少し楽になります。それを受け入れていると、役者の皆さんもすばらしい次元に達することがある。そういうことをどうやったら繰り返せるだろうかと考え、いろいろな方法を試してみます。根本にあるのは、自分たちが映画を撮っているのだと自覚しておくということなんです」
取材・文/久保田 和馬