実写映画で改めて感じる”ハガレン”のメッセージとは。『鋼の錬金術師』完結編を原作ファンがレビュー!
本物のエドとして生きていた山田涼介
完結編二部作を鑑賞後、改めて前作を観直してみた。原作では“お父様”にたどり着くまでにさまざまな出会いと別れ、戦いを乗り越えてエドは成長をした。もちろん尺の決まった映画ではすべてを描けるわけがなく、それらをすっ飛ばして完結編を迎えて納得できるのか?と思ったのだが、それが納得できたのは山田涼介によるエドの完成だった。肉体的な部分では、葭原プロデューサーも「山田さんは半年以上前からパーソナルトレーナーを付け、主に肩回り、胸筋を鍛えていました。その結果、前作の衣裳が入らず、作り直しとなりました」と言うほど、劇的な変貌を遂げた。
そして山田は外見だけでなく、エドとしての精神的な成熟も垣間見られた。エピソードがなくても空白を埋められる、観ている側が、エドの成長を自然と補完できるだけの演技力と存在感で観客を納得させたのだ。自身も原作の大ファンであるという山田の中に、エドとしての経験が演じずとも蓄積されていたのかもしれない。山田が掛けていた今作への想いが、スクリーン越しにも伝わってくる。
原作者の荒川弘も「山田くんは見ている途中から、山田涼介という名前がどっかに飛んで行ってしまうくらいエドでびっくりしました。体のつくりから仕草すべてが、エドそのものでした。クライマックスのシーンは完璧の一言。若かりしホーエンハイムの全部諦めているような表情や、若いお父様のムキムキ具合がエドとはまた違って、一人三役を演じ分ける山田くんの役作りは本当にすごかったです。原作にこんなに忠実に作り込んでくれて。ありがたいですね。本当にお疲れ様でした!」と語っており、キャラクターの生みの親から見ても、完璧なエドワードだったようだ。
また「最後の錬成」では若き日のホーエンハイムと、完全体となった“お父様”の三役を演じている。感情豊かなエドに対し、無の“お父様”。この対比を演じ切っている山田涼介に大きな拍手を送りたい。そして、いまの山田涼介だから演じられたのではないか、と思わずにはいられない、ラストの迫力あるエドと“お父様”の対決を観るためだけに、映画館を訪れても損はないはずだ。
“ハガレン”とは、なにを描く物語だったのか?
「鋼の錬金術師」が都度、読者に問いかけてきたのは「命とはなにか?」ということだ。エドとアルの旅は“命”を求めることから始まった。自分たちが犯した過ちで多くのものを失ったエルリック兄弟が、たくさんの人との出会いと別れを経験し、ホムンクルスという存在を知り、時には命の誕生も目の当たりにして旅をしていく様子は、人間の定義や命の尊さといった“死生観”を、お説教ではなく自然に考えさせてくれる物語だった。
いま、現代世界は混迷を極めている。丁寧に描かれたイシュヴァール殲滅戦の悲劇、戦場から端を発した復讐。ハガレンでは、大切な人を奪われ復讐心に駆られるスカー、マスタング、ウィンリィを通し、勇気をもって復讐を“しない”決断を下した3人を丁寧に描いた。そして「誰かにとっての誰かの命の価値」を問い続けた。そんな物語だからこそ、いまこの時代に実写映画化された意味があるように思う。映画の結末は原作を知っている人でも、改めて人と人の繋がりを強く感じられる仕上がりになっている。無理に、とは言わない。が、原作ファンとしてもぜひ観ておくべき作品であることはお伝えしたい。