ファンの「シャマランが帰ってきた!」の声に本人は興味なし!?「僕はずっとここに座っていただけ」
「僕の娘たちは、僕が作品のためなら、自宅を燃やすことだってしかねないことをわかっている(笑)」
本作はダークな映画ではあるが、同時に希望という余白を残している。これはほかのシャマラン作品にも共通する傾向だ。「世界が本質的に悪い、ネガティブな場所だとは、僕は思っていません。むしろ慈悲深い場所です。だからなにかうまくいかないことがあっても、心が傷ついても、大きな文脈で見れば大丈夫なんじゃないかと、僕は思っています。とはいえ、いまこの瞬間も、世界の終わりに向かってエスカレートしていくようなことが起きていて、それはとても怖いことです。地上のあらゆる人間が、100年以内にやり方を変えなければ、すべてが終わってしまう、そう僕は考えています」。
「同時に変化のスピードが速くなっているのも実感しています。以前は世代交代に25年かかっていたものが、いまでは5年で変わる。僕と、娘たちの世代とでは考え方も違うけれど、考え方の速度も異なる。娘たちの世代は、5、6年で自分たちの考え方を大きく変えたりもできるんです。それを踏まえると、すべては正しい方向に進んでいると思うことができますね。この映画にはちょっとした時限爆弾的要素として、『我々は果たして方向転換するのに間に合うような速さで、いま変化できているのか?』という問いかけが入っています。手遅れになる前に、我々は方向転換すべきではないでしょうか」。
ご存知のとおり、シャマランはキャリアの初期に『シックス・センス』で脚光を浴び、『アンブレイカブル』(00)、『サイン』(02)とメガヒットを連発。これらを彼のマスターピースと考えるファンは多いが、一方では近年の『ヴィジット』(15)、『オールド』(21)など充実したスリラーに“シャマランが帰ってきた!”と快哉を上げるファンもいる。このような状況を、シャマラン自身は冷静に見ているようだ。
「観客が映画監督の“ストーリー”を口にするのは簡単なことですが、私自身はそれに関わらないようにしています。便利な“ストーリー”ではありますが、実際にはその10倍は複雑なものなのです。新作を発表する度に“帰ってきた!”と言われますが、そんな声を耳にすると『僕はいったいどこに向かっているんだ!?』と思ってしまう。帰ってきたもなにも、ずっとここに座っていただけなんですけどね(笑)」。
「とはいえ、監督として観客に自分の“ストーリー”を語られることは、ポジティブでよいことだと思っています。僕の映画に愛を持って接しているからこそ、語れることですからね。ただ、どんな“ストーリー”が語られるにせよ、僕にできるのは次の作品の脚本を書き、新しい映画を作ることだけです。自分の作りたいもののためなら、すべてを投げ出すでしょう。僕の上の娘2人もアーティストで、その一人、シャナは前作『オールド』に続いて、セカンド・ユニットの監督を務めています。彼女たちは外野の声に左右されない、僕の姿勢を知っています。僕が自分の作品のためなら、自宅を燃やすことだってしかねないことをわかっているんです(笑)」。
取材・文/相馬学