この社会に生きるすべての“ウ・ヨンウ”へ理解と尊敬を。第59回百想芸術大賞をスピーチで振り返る
伝えたいのは、互いを尊重する大切さ。多様性を認め合い連帯を誓う特別公演
毎年、百想芸術大賞を俳優たちの歌で盛り上げる特別公演のコーナー。今年は、疎外されて生きる社会的弱者へ向けられたステージだった。
MCのペ・スジによるプロローグは、何でもない日々を平凡に生きるように見える誰かに、「本当に元気でしたか?」と尋ねることから始まった。そして「大衆文化芸術は、平凡な日常を享受できなかった誰かのストーリー、たやすくはないあなたのストーリーへ耳を傾けていました。聞いていました。私たちが今まで探せなかった場所で、痛がり、壊れているだろうあなたへ、この物語を伝えます」と会場へ語りかけ、イ・ジョクの「돌팔매(石つぶて)」が聞こえてきた。2020年にリリースされ、多様性と連帯について歌い話題を呼んだ曲だ。
ステージでは、昨年公開された映像作品の中で、暴力に晒されたり、ハンディキャップを負うキャラクターの姿が抜粋され、そこで社会的弱者を演じた俳優陣が姿を現した。『聖なる復讐者』(5月12日公開)で、知的障害の青年ウォルとその兄イルの一人二役に挑んだパク・ジニョンが、“僕たちはそれぞれ違う みんな似ている存在ならむしろ変だ 私たちは同じではない 人生はいわばそれを知ること”と歌い出すと、『Next Sohee』のキム・シウンと、「ザ・グローリー ~輝かしき復讐~」の子役であり「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」でウ・ヨンウの幼少期も演じていたオ・ジユルが続く。さらに、ソヒの恋人の高校生テジュンに扮した新鋭カン・ヒョンオ。「アンナ」ディレクターズ・カット版で、アンナの母で聴覚障害者の役を演じたキム・ジョンヨンは、手話を使い歌詞を示した。子供を愛せず虐げるしかできない母親と娘の壮絶な苦悩を綴る『同じ下着を着るふたりの女』(5月13日公開)からは、娘イジョン役のイム・ジホが歌声を響かせた。
クライマックスでは、職場で暴力を受けるテジュンへ、ユジンが「誰でもいいから、私でも大丈夫だから、話して」と静かに、しかしきっぱりと口にするシーンが流れ、『ベイビー・ブローカー』(22)でIU演じる未婚の母ソヨンのセリフ「生まれてきてくれてありがとう」といった互いを肯定するシーンがちりばめられる。パク・ウンビンも気に入っている名セリフ「私の人生はおかしくて風変わりだけど、価値があって美しいです」の後、パク・ジニョンとオ・ジユルが“Get up 共に抱き起こして 土をはたき落として 僕たちはお互いの味方”と手を取り合い、幕が下りた。韓国エンタメ界の精鋭が総出演した歴史に残る舞台として、長く記憶されるだろう。
“ウ・ヨンウ”を経た韓国エンタメだけが持つ、より良い社会への希望
さらに踏み込んだ形になったのは、演劇部門演技賞で脳性麻痺の俳優ハ・ジソンが授賞したことだった。シェイクスピアの史劇「リチャード3世」を、生徒会長選挙を控えた脳性麻痺の高校生を主人公に再構築した、アメリカの劇作家による評価の高い演目だそうだが、実際にハンディキャップを持つ役者での舞台化はほとんどなかったという。
「私たちのブルース」に出演したダウン症の画家兼俳優チョン・ウネの例もあるが、当事者性という意味では未だ韓国ドラマも映画も課題が多い。だからこそ、今回のハ・ジソンの授賞は大きな意味を持つ。「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」のようにマイノリティが登場する作品を数多く作りコンテンツとして世に送り出していながら、当事者を現実でオミットするのは、自分たちが作るものも演技も所詮絵空事だと表明するのに等しいからだ。社会的弱者をエンタメとして消費する都合の良いフィクションに、“No”を突きつけようと前進する意思表示ではないか。
振り返れば、今シーズンの韓国ドラマと映画には、挙げればきりがないほど多様な価値観とマイノリティにフォーカスする作品が目立った。そんな風潮を、ポリティカル・コレクトネスへの配慮と穿って見るのは簡単だろう。少なくとも、最近韓国で生み出された良質なエンターテインメントの作り手たちには、冷笑も皮肉も通用しない。「アンナ」の母が聴覚障害者なのは、明確な理由がある。私たちにはハンディキャップを負いながら日常を送る隣人がきっといる。そして心ない現実の中でアンナがボタンをかけ違えたとき、より困難なしわ寄せとして彼女の母のような人々へ向かう。そうした冷酷な事実に目を向けさせるためだった。
登壇したハ・ジソンが、他の俳優陣の位置にしか合わせていないマイクを「高くて不便ですね」と口にしたシーンに、回転ドアに入れないウ・ヨンウの姿が重なる。ハ・ジソンが指摘した高い位置のマイクも、ウ・ヨンウの回転ドアも、私たちマジョリティ中心社会のあちこちに存在する。まだまだこの世界には、想像力が欠けている。しかし、現在の韓国芸能界の姿勢には、この不寛容と無関心で誰かを差別し抑圧する世界を、エンターテインメントの力で少しでも良くしようとする意志が明確に感じられるので、希望を抱きながら楽しめる。いずれこの社会にある“ステージマイク”が、すべてハ・ジソンの傍へ下がる時代が必ず来るだろう。
文/荒井 南