正解でも不正解でもない“アクション”の連鎖が物語を動かす。三宅唱監督『夜明けのすべて』を貫く映画の原理【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
「監督の名前で劇場に映画を観に行く」というのは、ある時代までの映画好きにとってはあまりにも当たり前のこと、近年乱用され気味の言葉で言うなら「内面化」されていることで、この連載「映画のことは監督に訊け」もタイトルからわかるように、まさにそのような規範や行動原理に則ったものであることは言うまでもない。敏感な人ならば『Playback』(12)以降、あるいはどんなに鈍感な人でも『きみの鳥はうたえる』(18)以降、国内の映画好きにとって三宅唱の名前はそのように機能してきたし、どの作品も例外なくそうした期待に応えてきた。
一方で、三宅唱監督のここまでの歩みは、それ以前の時代に信頼と支持を集めてきた日本の映画作家の歩みとは違って、作家としての評価やキャリアに応じた製作規模の拡大であったり、わかりやすいトライ&エラーの繰り返しであったりとは無縁のまま、インディペンデント的な姿勢を保ちながら、どこか超然とした、あるいは飄々とした、少々とらえどころのないフィルモグラフィーを更新してきたようにも見えた。だからこそ、「監督の名前で劇場に映画を観に行く」観客以外にも広くアピールするであろう座組で製作された今作『夜明けのすべて』のタイミングでまず確認をしたかったのは、三宅唱自身による監督としての自己像だった。
印象的だったのは、三宅唱が映画作りへの向き合い方を語る際、その一人称がしばしば「自分」ではなく「自分たち」であることだった。それは、もちろんそのままチームとしての映画作りを意味しているわけだが、それだけでなく、映画という大きなものを前にした時の個の小ささに自覚的な、三宅唱監督の映画への謙虚さを表しているのではないだろうか。インタビュー中に「すべてのもの、すべての人は、イメージ通りじゃないよねっていうものを、映画では撮りたい」と語っていたように、自分が三宅唱監督に抱えていたイメージもまた、ただのイメージでしかなかったのだろう。
パニック障害やPMS(月経前症候群)というシリアスな題材を扱った『夜明けのすべて』も、その題材に繊細かつ真摯に向き合いながらも、そうした病名から我々が受け取るであろうイメージからはまったく想像のできない道筋を経由して、思いもしなかった心の場所へと観客を連れて行ってくれる作品だ。2022年の前作『ケイコ 目を澄ませて』に続いて、本作も今年を代表する日本映画としてその歴史に刻まれることになるだろう。そして、世界中でさらに多くの「三宅唱の名前で劇場に映画を観に行く」観客を生みだしていくに違いない。
「『ケイコ 目を澄ませて』を超える超えないみたいな考えは捨ててやろう、という会話がありました」(三宅)
――監督のフィルモグラフィーを振り返りつつ、新作をどう位置づけていくかというのがこの連載の一つのテーマなんですが、三宅監督にとって今回の『夜明けのすべて』は、結果的に30代最後の作品ということになりますよね?
三宅「はい、そうですね。次の作品を撮影する頃には40代に入っちゃうんで。ああ、人生あっという間だな!」
――(笑)。
三宅「でも、フィルモグラフィー全体の中での位置づけは、自分では考えてないです。作品を撮る際はその都度、目の前の1本に必死なので」
――はい。
三宅「短期的に言っても、前後はあまり関係なくて。『ケイコ 目を澄ませて』で自分たちのチームがある達成をしたという自覚はありましたが、そんなに間を置かずに『夜明けのすべて』の撮影に入ることになり、でもそこで、『ケイコ 目を澄ませて』を超える超えないみたいに思われるかもしれないけど自分たちはそういう考えは捨ててやろう、という会話がありました。そういうことを自分たちで思うのは、下品だし、本質的ではないし、と。重要なのは、『夜明けのすべて』をいい作品にするためにはどうしたらいいのか、そのためにベストの準備やベストな進め方をしていくことだというのは、スタッフ間で共有していたことです」
――なるほど。事実確認をしておくと、『夜明けのすべて』の撮影が始まったのは、『ケイコ 目を澄ませて』が完成したタイミングと公開されたタイミングの間だったということですね?
三宅「そうです。『ケイコ 目を澄ませて』が公開されたのは、『夜明けのすべて』の撮影をしている真っ最中で。『ケイコ 目を澄ませて』の初日舞台挨拶をしたのは、『夜明けのすべての』の終盤の撮休日でした」
――『ケイコ 目を澄ませて』が複数の映画賞を受賞したことも含め非常に高く評価されたこと、そして多くの観客から支持されたことについて、いまはどのように受け止めていますか?
三宅「それはもう、岸井ゆきのさんを間近でみていた者として、撮影中から『これは伝わるぞ』というのは思っていましたし、そして、実際にたくさんの人に伝わってくれたというのは、なんだろうな、自分の心の中のなにかが折られずに済んでよかったなっていう思いです」
――なるほど。
三宅「一方で、いまの日本の状況、これは映画界だけじゃなくて日本社会全体の状況としてですけど、やっぱり映画を観る人は減ってきてるんだな、と」
――はい。
三宅「『ケイコ 目を澄ませて』は確かに高い評価も受けましたし、深く刺さったという反応をもらえると1つ1つ本当に感激するというか、とてもうれしく思っているんですけど、欲を言えば、もっとみてほしい、まだまだだ、とも思っています」
――それは自分も思いました。それこそ、10年前だったら、あれだけ圧倒的な評価を得た作品だったら、もっとたくさんの人が映画館に押しかけていたように思います。それは、以前に比べてもさらに映画ジャーナリズムの力がなくなってきているという話でもあるわけですが。
三宅「そうですね。その背景には、コロナ禍以降の生活様式の変化というのもあるでしょうし。『ケイコ 目を澄ませて』単体の話ではなく、日本では周りを見渡しても、洋画邦画問わず、いまは極端な数字になってきてますよね。お客さんが入る作品はさらにたくさん入るようになって、お客さんが入らない作品はさらに入らなくなっている。映画館を取り巻くそういう状況を――地域によって抱えている問題は違うので一概には言えないですけど――『ケイコ 目を澄ませて』を通して客観的に再確認することができたという感じはあります。今回の『夜明けのすべて』は、またちょっと違う公開体制になるので、世の中がどう見えるのか楽しみにしているところです」