正解でも不正解でもない“アクション”の連鎖が物語を動かす。三宅唱監督『夜明けのすべて』を貫く映画の原理【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
「“言葉を撮る映画”になるだろうなというのは、最初から思っていたことです」(三宅)
――あと、この作品はわりと長めの藤沢さんのモノローグで始まるじゃないですか。それが、三宅監督の作品としては珍しいと思ったんですけど。
三宅「そうですね、『きみの鳥はうたえる』にもタイトルが出る前後にモノローグがありましたけど、あれともちょっと違いますね」
――はい。終盤にも、それこそ『夜明けのすべて』というタイトルにもつながるような、作品のテーマそのものを言語化しているモノローグがある。
三宅「はい」
――映画の見方の一つとして、あまりテーマを作中で言語化しない方がいいという考え方があるじゃないですか。それを、映画的なリテラシーが非常に高い三宅さんが敢えてやっている理由が知りたくて。
三宅「ああ、なんだろう。ざっくばらんに言うと、“おしゃべりって楽しいよね”っていうことが出発点というか、核にある物語だと思うんですね。単なるおしゃべりじゃなくて、何気ない言葉の交換一つ一つにも、そこにはちゃんと意味がある。なので、“言葉を撮る映画”になるだろうなというのは、最初から思っていたことです。これまでの自作ではやってきてないことだから、意外に思われるのかもしれません」
――特に前作『ケイコ 目を澄ませて』との対比でいうと、ケイコはほとんどしゃべらなかったじゃないですか。
三宅「その比較は特に意識してなかったです。比べる必要もなかったので。あと、テーマを作品内で言語化するという点では、勇気をもらえるのは例えばリチャード・リンクレイターの映画ですね。リンクレーターの作品は、どこかで必ず誰かががっつりテーマをしゃべってますよね」
――言われてみれば、そうかもしれません。
三宅「その台詞によって、作品全体の見通しも良くなるし、映画がそれでおもしろくなくなるわけではまったくない。シチュエーションと言葉をちゃんと選べば映画がより豊かになるというのは、もちろんリンクレイターの作品だけじゃなく、古典映画の中にもたくさんありますし、これまで自分の映画でやってこなかったのは、単にそういう題材じゃなかったということだと思います」
――今作の公開規模であったりとか、お客さんの中の一定数を占めるであろうキャストのファンであったりとか、そういうことをふまえてちょっと親切設計を心がけたとか、そういうことではないんですね。
三宅「それはないですね。自分たちの信じている映画っていうものをブラッシュアップしていくだけです。そのブラッシュアップのなかに、より多くの人にとって楽しめるようにということも多少は含まれているとは思いますが、作品の外部の理由によってそれを変えるようなことはないです」
――いずれにせよ、『ケイコ 目を澄ませて』の時点でも十分に、次作がどんな作品になるかまったく予想がつかなかったんですけど、今回の作品でさらにその幅は広がりましたね。
三宅「次がわかられたら、つまんないじゃないですか(笑)。僕自身もわかんないですし、そう思われてるとしたらラッキーですね」
「あからさまな政治性や思想性を帯びさせないというのが、一つの作家性になっている」(宇野)
――ただ、『ケイコ 目を澄ませて』では潰れかけの小さなボクシングジム、『夜明けのすべて』では町の小さな工場と、いずれも、もしそれがなくなったとしても多くの人には気づかれないような舞台設定の物語で。現在の新自由主義社会の中で追いやられている立場、追いやられかねない立場の側に立っているということが、特に近作からは伺えるわけですが。
三宅「そうですね」
――一方で、映画作家がそういう立場に寄り添おうとすると、往々にしてある種の政治性や思想性みたいなものを帯びてくるケースがよく見られるわけですけど、三宅監督の作品は、そこに新自由主義に対する疑義は込めながらも、あからさまな政治性や思想性を帯びさせないというのが、一つの作家性になっていると自分は思っているのですが。
三宅「そう感じていただけるのはありがたいし、自分の政治性は明確にあるんですけど、こと映画では、それを表現するのは、題材の選択ではなくて扱い方というか、あくまで演出の過程においてであって、となると、まあ目には見えづらいですかね(笑)。一応ちょっと説明すると、例えば小さなジムだとか、古い町工場だとか、そういうものに多くの人が抱くイメージってあると思うんですね」
――はい。
三宅「でも、そのイメージはただのイメージ、いわば『ただの思い込み』というやつであって、現実はそんなものには収まらない、さまざなな違う姿であるはずなんです。例えば身体がデカくて威圧的な男がいたとして、もちろん、中身もそのまま通りのヤツもいると思うんですけど、別にそのイメージを強化するような、いわばプロパガンダを撮っても全然おもしろくない。映画を観るおもしろさって、一般的な思い込みではこうだけど実はこうだったのかとか、こんな面もあるんだよねっていう、最初のイメージが解体されていって、新しいものを発見する驚きや喜びにあるものだと思うので。だから、作品の舞台としてどういう場所を選択するかということよりも、そういう場所が目の前にあった時に、その場所や、そこにいる人たちをどうやって演出していくかっていうところに、自分の政治性が発揮されているんじゃないかなって思いますね」
――なにを選択するかではなく、それをどう見ているかってことですね。
三宅「はい。だから、失われつつあるものに対する郷愁みたいなものが、別に強いわけじゃないです」
――すごくよくわかります。潰れそうな小さな町工場が出てきて、そこに債権者が取り立てにくるみたいな、そういうわかりやすいところには絶対に回収されない。
三宅「よくスタッフたちと冗談で話すのは、『俺たちは宇宙人のつもりで撮ろう』ってことで」
――宇宙人?
三宅「自分が北海道出身というのもあると思うんですけど、いまでもどこか一般的な日本社会のことは“内地”だと思っていて。北海道出身であることを別に自分のアイデンティティだともそこまで思ってないんですが、そういう外からの視点」
――へえ!
三宅「だから、宇宙人の目でも、動物の目でもいいんですけど、つまり、自分の住んでいる場所の言語的な価値観というか、日本語のコンテクストにおける価値観とは全然違うところから映画を撮ってみたいという気持ちがあって。それはシネフィリーに言えば、“キャメラの目”みたいな言い方にあたりますけど、もうちょっと硬くない言い方に変えて(笑)、宇宙人が地球を探検してるつもりでカメラの先にあるものを見てみようって。そうすると、言葉の意味にあまりとらわれず、いろんなことのコンテクストだとか、ジャンルの“お約束”やクリシェからも自由になって、フラットに、純粋に興味深い音とか光とか、興味深いアクションが見えてくるはずという、まあおまじないみたいなものですけど」
――確かに三宅監督の作品って、シネフィル的な評価ももちろんされているわけですけど、そこからも微妙にずれているというか。なるほど、そう言われてみるとその秘密に触れたような気がしますね。
三宅「そういう視点からおもしろく見えるものがあるというのは、いつも思ってることです」
――それが同じ題材を扱った他の監督の作品とは、いつも明確に違うことがやれている理由の一つなのかもしれませんね。
三宅「僕は絶対ケイコにはなれないわけですし、『夜明けのすべて』でも、2人の境遇それぞれのポイントポイントでは似たような経験をしたことはありますけど、絶対にわからないところがある。そういう意味では、通常の主観ショット的な感情移入の語りとは、違うかたちで映画を語ろうとしてる、あの2人を観ようとしてるのかなと思うんですけど」
――うんうん。
三宅「だから、あくまでも自分は主人公の近くにいる人間の一人であって、目の前にそういう友達がいて、その人になって泣くことはできないけど、その人を身近に感じて、一緒に笑ったり泣いたりすることはできる。あくまでも自分は自分というか、いち観客の位置にしかいられないと思うんで」
――今回の主人公2人に関しても、もちろん同じような症状を持っている方は共感できるポイントもあると思いますけど、そこで感動するんじゃなくて、2人が何気ないやり取りをしている、それに第三者として感動してしまうんですよね。山添くん(松村北斗)の部屋を藤沢さんが出る前に、ポテチの袋を逆さまにして飲むシーンであったりとか。
三宅「いいですよね(笑)」
――それにつっこむことなくただ見ている山添くんも含めて、2人の間には建前ではなく、本当に恋愛感情がないことが、あのシーン一発でわかるっていう。まあ、自分の場合、それは三宅監督の見事な演出に感動してるわけですが(笑)。
三宅「(笑)。もっと感情移入に巻き込むシステムとして映画を作ることもできるだろうし、そのための技術も発達してるわけですが、自分はそうじゃない映画の使い方をしたくて。話が飛躍するようですけど、男女がいればそれは当然恋愛を目指すよねというのが『メジャー』な考え方だとしたら、それはやっぱりカッコつきの『メジャー』な、狭い考え方だと思うんですね。それに対して、恋愛を目標としない関係をいわば自由だとすると、この物語の本質というか魅力は、メジャーかマイナーかという捉え方とはまったく関係ない、アンチメジャーですらないところにあると思っていました。もしこの物語が男女の恋愛を描くものだったら、どこか『メジャー』っぽい作り方をしたかもしれませんけど、題材がそうじゃないので」