正解でも不正解でもない“アクション”の連鎖が物語を動かす。三宅唱監督『夜明けのすべて』を貫く映画の原理【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
「どこまでいっても第三者でしかないのが映画の限界だし、映画のおもしろさだと思うんですよね」(三宅)
――たまたまかもしれないですが、『呪怨:呪いの家』も陰惨な話だったし、『ケイコ 目を澄ませて』の主人公も聴覚障害を持っているという設定だし、『夜明けのすべて』の2人も具体的な病気を患っている。傾向として言えるのは、三宅監督が(主人公に)「なれない」と言う時のなれない存在が、弱者の側によりがちだというのはどう分析されますか?例えば大金持ちで共感性が欠如しているような主人公の映画とかも、世の中にはあるわけじゃないすか。
三宅「ああ、そういうのもやりたいっすね! (F・スコット・)フィッツジェラルドの小説みたいな、金持ちのどうでもいい恋愛話とか超撮りたい(笑)」
――じゃあ、こうして続いているのはたまたまという感じなんですね。
三宅「そうですし、正確に言うと、自分はそもそも弱者とは見てないっていう感じかもしれません。わざわざこう言うのも変なくらい、あたりまえに、ただただ惹かれて撮るっていう」
――そうかそうか。
三宅「もし自分の周りの友達にパニック障害の症状が出た時に、そこで第三者としてなにができるのかが大事だなと。当事者気分を味わうみたいな方法もあるけれど、どこまでいっても第三者でしかないのが映画の限界だし、映画のおもしろさだと思うんですよね。映画なんてはなから全部他人事なわけですから。実話だろうがなんだろうが映画になればフィクションだし、でも他人事なのにもかかわらず第三者としていつの間にか巻き込まれていくっていうのがおもしろさかなと思います」
――海外の観客のことはどの程度意識されてますか?
三宅「誰かと比べてる感じですか(笑)?」
――そういうわけじゃないですけど(笑)、日本を舞台に映画を撮ること、あるいは日本語の映画を撮ることに対して、あまり気負ってないというか。
三宅「例えばドメスティックなジョークとかは絶対に伝わらないものもあるから、避けることはあります。ただ、ちっちゃいころからずっとアメリカ映画を観てきて、アメリカ映画だとローカルでしか通じないギャグも許されて、それが結果おもしろいってこともあるから。それは羨ましいなとは思いますけど」
――自分みたいな仕事をしている人間が、そういうジョークをせっせと解説してっていう構造がありますよね(笑)。
三宅「そうですね。あと、自分の場合は最初に劇場公開した作品から、国際映画祭などを通して海外の観客にも出会えたので、特に気負いもないというか、気負い出したらきりがないんで、気負ってないんですかね(笑)」
「僕は、グローバリズムとか、メジャーとか日本映画界とか、そういう『大きな物語』みたいなものは、あるようでないと思っている」(三宅)
――そういう三宅監督の戦略のなさというのは、さっき話したような新自由主義、あるいはグローバリズムへの疑義みたいなものとも結びついてるのかなって、ちょっと感じるんですけど。
三宅「その都度その都度、作品ごとにどこに向かっていくかっていうのは考えてはいるつもりなんですけどね…ああ、なるほど、質問の意味がわかりました。僕は、グローバリズムとか、メジャーとか日本映画界とか、そういう『大きな物語』みたいなものは、あるようでないと思っている。そんなのそもそも認めてないし、みたいな(笑)。だからアンチともちょっと違うスタンスで。そのせいでわかりづらいんですかね。当然、日本を代表するなんて気もないし。アナーキーに、というと大袈裟ですけど、自分なりに、いまの時代にどんな題材を取り上げるべきだろうとか、興味深いけどいまやってもあまり意味がないよねとか、そういうことはすごく考えますよ」
――今回の『夜明けのすべて』は、日本ではメジャー映画とも言えるわけですが、海外に出ればアートハウス映画の枠組に入れられるわけで、そういうねじれもそこには生じるわけですよね。
三宅「そうですね」
――現在って、「日本映画の未来は?」とか言ってる以前に、「映画の未来は?」ってことを考えなくてはいけない時代だと思うんですね、それこそ実写のフランチャイズじゃないある程度の予算がかかる映画なんて、いまでは配信プラットフォームから資金を引っ張ってこないとなかなか作れないみたいなことになってるわけですよね。そうした現状をふまえて、映画界の未来、展望みたいなものに関してはどのように考えてますか?
三宅「ちょっと雑な言い方になってしまいますが、自分が生きてる間は、映画はおそらくまだなくならない。そういう楽観がまず大きくあります。ただ、自分より年下の監督を見ていると、自分の世代が映画を撮る時もそんなにめちゃくちゃチャンスが転がっていたわけじゃなかったですが、僕の10個下、20個下の監督たちって、既存の枠組の中で世に出たいという場合なら、大変だろうなとは思いますけどね。でも、どうにでも自由に撮れるっちゃ撮れるから、そこで勝手にやる人が続けていくんだと思います」
――今後、映画の上映環境がどうなってるかもわからないですしね。
三宅「映画の世界に回ってくる資本は有限ですから、それは年齢が下だろうが上だろうが、いい映画を作る人間が映画を撮ればいいと思うんで、それは世代とは関係ないですけど。今年、アジアの10都市ぐらい、わりと長期的に滞在して」
――10都市はすごいですね。
三宅「韓国のムジュとソウル、それから上海、浙江省の浙江伝媒学院、武漢、成都、北京、香港、台北、クアラルンプールですかね」
――それは『ケイコ 目を澄ませて』を持っていったんですか?
三宅「そうです。それに加えて中国の4都市では、各地の有志の自主上映団体がオンラインで連携をとって、僕の特集上映というのをドーンと、初期の作品や短編も含めてやってくれて。そこで思ったのは、これは他の人もとっくに同じことを言ってますけど、やっぱり日本のアートハウス系の映画館の存在というのは、自分たちが思ってきた以上に重要だったんだなってことです。自分のような人間がいま映画を撮れていることの基盤には、明確にその存在がある。アジアの他の国にはそういう環境がこれまでほとんどなく、自主上映団体のような形で続いている。もちろん、それぞれの国の映画界には日本にない側面もたくさんあって、例えば中国映画の俳優のギャラを聞くと、もうぶったまげましたけど」
――うんうん。
三宅「それと、今回つくづく思ったのは、こんなにも人間の欲望ってマーケットに規定されるんだなってことで」
――産業と文化の関係ですよね。
三宅「そうです。中国の本屋に行くと『えっ、こんな本の翻訳までしてるの?』と驚くわけですよ。『一体こんな本、誰が買うの?』と思っちゃうような、日本でも部数が伸びなさそうな本が翻訳されている。でも、『うちの国では、なんか出せばそれなりの人口がいるんで買う人がいるんです』と。“これをやっても売れないかもな”と思う国と、“これをやったら売れるかもな”と思う国とでは、質はともかくとして、描ける夢の量やヴァリエーションが違ってきますよね。小さい世界の大きいマスを取ろうとするのがドメスティックな仕事だと定義するなら、そうじゃなくて、大きい世界を意識しながら今まで通り質のいいものを作れば、きっとどこかに届くはずだ、と思える。大きいマーケットででっかく売ろうとすると、それは巨大資本と組まなければいけないわけですけど、日本の外にマーケット自体はあるぞと。興味を持ってくれる人が、この国とこの国とこの国に何人はいるよねっていうことさえわかっていれば、自分の比較的小さい映画でも成立させることができるかもなっていうことを、今回いろんな国で上映してもらって実感しましたね」
――それは勇気づけられることですよね。
三宅「あと、どこに行っても『濱口監督と仲がいいんですよね?』って言われる。濱口監督がでっかい道を開拓してくれたんで、こっちは歩きやすくてしょうがないっていう(笑)。それは冗談として、映画の中身と絡めて話しますと、かつての山添くんは確かに『メジャー』な社会にいたと思うし、本人もそこから離れて初めてそれに気づいて、自分の居場所はここじゃないって苦しんだと思うんですね。藤沢さんも、『自分なんか』と卑下してしまっているようにも見える。でも途中で2人とも、あくまでかっこ付きのメジャー、かっこ付きのマイナーだった、『思い込み』だったと気づく。それに、いま2人がいる会社が別に『アンチメジャー』でもない。世界はそんな単純じゃないというか、光石さんと渋川さんの演じた役はつながっているわけだし、会社みたいな空気は藤沢さんの母の通院先にも流れている。
同じように、いまの時代に映画を作る自分もそこに重ねるなら、『夜明けのすべて』は“メジャー”でも“アンチメジャー”でもなく、単に、新しくておもしろいものが作りたくて挑んだ映画で、いままでもそうだし今後もそうする、という感じかなと思います。ただまあ、人生いくらコントロールできないことばかりと言っても波に流され続けちゃうのもシャクですし、メジャーか否かはただのドメスティックな尺度だというのも疲れるし、コマーシャルフィルムかアートフィルムかという分類は国際的にはあると認めざるを得ないし(笑)、多少は腰据えてやるべきことをみださめたいと思って、やっとオリジナルの題材も企画開発するべく勉強しているところです」
取材・文/宇野維正