黒沢清と濱口竜介の“師弟対談”をフルボリュームでお届け!『蛇の道』の演出術を隅々まで深掘り
「黒沢さんは、“世界はそういうものだ”という表現をやられている」(濱口)
濱口「改めてメインのお二人についても聞いていきたいのですが、柴咲さん。“蛇の目”と言われていますが、この作品を締めるのも彼女の目ですし、きっと勘の良い人で黒沢さんのビジョンとどう共鳴しているのか探っている感じがあって、威厳を持ってこの映画のなかに存在していました。ダミアン・ボナールも本当に素晴らしい。彼が急に笑い出す瞬間が怖いというかとても不安になりますし、オリジナルでの香川照之さんの顔も凄かったですが、それとは違う方向性の複雑な表情をされていました」
黒沢「お二人には感謝しかないですね。ダミアンは次どうなるのか待っているシーンが多くて、全身から滲み出るように所在なげに待っている感じがすばらしかった。柴咲さんは、ナイフ投げたりペットボトルの蓋をパッと投げたり、あれ良くないですか?」
濱口「大画面じゃないとわからないところですよね。2人の関係には、オリジナルとはまた違ったものがありますよね」
黒沢「脚本の時からねらったというわけではないのですが、男女にしただけで、男2人だったオリジナルのようにドライな関係だけど、時々妖しい感じになる。この後2人はどうなっちゃうんだろうという微妙な気配が自然に漂ってきました」
濱口「もう一つ聞きたいのは、観客との間にズレをあえて起こしている作品だと思ったことです。“蛇の目”と言った瞬間、観客はそれを見たいのにカメラは寄ってくれなくて、死体が映る場面でも指差す前に映ってから戻ってきて指を指す。観客の期待とズレがある。それが極まったのはジムの場面で、リアリティで考えたらかなり危うい。そこにリアリティがないとツッコミを入れる人もいると思うのですが、それもいいと思うのが黒沢さんのスタンスなのかなと。なので、ひとりの教え子として改めて伺いたいです。劇映画とリアリティは、どう付き合っていけばいいんでしょうか?」
黒沢「これはね……割とどうでもいいんです(笑)。あることをすごく変だという人もいれば、こういうことあると思う人もいる。“リアリティ”ほど怪しい言葉はないんです。自分の信じるリアリティに沿うことは、監督だから仕方ないこと。映画を作るためにはなんでもいいから基準を設けないと先に進めないので、そのために監督がいるんです。変だと思う人もリアルだと思う人もいて、リアルじゃないけどおもしろいこともあるし、リアルでもつまらなかったと思う人もいる。その程度のものだと思います」
濱口「おもしろさとリアリティは究極のところ、関係がないものと」
黒沢「とはいえ映画ですから、監督が信じること、一般的かどうかというある種のリアリティはワンカットごとに追求していくべきだとは思います。それがリアリティではない、作家性というか、その映画の個性になっていく。……なんで講義してるんだろう(笑)」
濱口「ありがとうございます(笑)。最後に、『Chime』と『蛇の道』を拝見し、秋には『Cloud クラウド』が控えている。黒沢さんは、いま本気で世界に悪意を撒き散らすつもりなんだなと思いました。1990年代や2000年代にはそういうところもあったと思いますが、キャリアのここに至ってもう一回悪意というか、世界はそういうものだという表現をやられていると思いました。本当に楽しみにしています」
黒沢「そう言っていただけるとうれしいです。悪意を、というほど悪者でもないですが、映画ですから、たかがフィクションですから。映画のなかで起こっている悲惨な出来事はすべてフィクションで、こういうこともありうるとその場で楽しんでいただければ、それが映画の大きな楽しみのひとつだと信じております。怪獣映画を観て育った身としては、怖いことこそ映画のおもしろさであると信じておりますので、それを続けています」
取材・文/久保田 和馬