有能なヤツ大歓迎!“ベンチャー・スピリット”の塊な信長は、戦国時代のイーロン・マスク!?「コテンラジオ」ヤンヤンが語り尽くす
「信長は当時はまだ破天荒な行動だった実力主義をやりきった人」
では、誰もが口をそろえてNo.1の戦国武将に挙げるであろう信長はなにがそんなにスゴかったのか?という命題をストレートにぶつけてみると、「織田信長は、非常に合理的な人間なんですよ」という答えが。ヤンヤンによると、戦国時代もそれまでと変わらず世襲制は続いていたが、信長は父、信秀から土地や家を受け継ぐ世襲をベースにしながらも、とことん“実力主義”の采配を実践したのだという。「実力主義を、わかりやすく現代の言葉に置き換えると“ベンチャー・スピリット”。“自分の実力でのし上がってやるぜ!”というマインドを持った人たちは、戦国時代に結構いたんです。なかでも信長は主君として、実力ベースの人材採用と評価をかなりの程度までやり切った人ですね。そんな武将は信長以外にはいなかったと言われています」。
信長の実力主義を象徴するものとして、ヤンヤンは羽柴秀吉(豊臣秀吉)を例に挙げる。「もともと秀吉は、どこの馬の骨ともわからない百姓の子ですよ。でも、信長は彼が有能だと思ったから引き入れた。同じように、血縁や、自分とのつながりがそんなにない武将でも、能力を見込んだら自分の陣営や親衛隊にどんどん組み入れていった。そのような人材戦略が時代のうねりにバッチリはまり、彼の経営センスとも相まって、天下に布武できるトップにまで信長は登り詰めることができたんです」。
その成果の表れとして、桶狭間の戦いのあと、7年の歳月をかけて美濃を平定した信長が、一度は京都を追われた足利義昭を奉じて上洛を果たし、義昭を将軍の座に就けることに成功したことを挙げる。「上洛はハイリスク、ハイリターンなんですよ。上洛には官職をもらったり、地位の高い肩書きが得られたりするなどのメリットもあれば、デメリットもあるんですよね。上洛にはお金も時間も、それを実行する能力も人材も必要です。京に上る道中では敵を倒したり、同盟を結んだりしなければいけないので軍事力のみならず、外交力も必要。さらに、そもそも自分の領国の支配基盤が固まっていないと上洛は難しい。上洛で領国を離れている間に反乱が起きたり、下剋上に遭ったりしますから。領国の整備ができて初めて上洛ができるわけですけど、信長の“実力ベースの人材採用”が、ここでも機能したと思います。明智光秀は将軍、足利義昭に仕えていましたが、めちゃくちゃ有能で、足利義昭のもとを離れ信長の部下になります。信長も全幅の信頼を彼に置くようになり、のちに親衛隊長のような役職に明智光秀をつけたんです。映画のなかでは、信長上洛の意思決定に濃姫が大きな役割を果たしていましたね」。
「本能寺で討たれなくても、信長はいずれどこかで殺されていたでしょう」
そこでは、信長の家臣になった武士たちの心理も大きく作用しているようだ。「儲かっているベンチャー企業には、誰もが入りたいと思いませんか?それと一緒で、信長につけば単純にお金や食い物、土地や領民がもらえる。最初はそんなに賃金がよくなくても、結果を出せば金額が増えたり、役職がもらえたり、たくさんの家臣が持てるかもしれない。そういった期待感が信長にはあったと思うし、 実際、信長は与えるものはちゃんと与えていた。結局、その時代のキャリアアップの王道をちゃんと踏めた人が成功するんです。それは名を成した武将たちに共通することですけど、そこに徹底した実力主義という当時においてはキャリアアップの邪道をやり切ったのは織田信長だけと言ってもいいです」。
一方、有能な武将たちを周りにつける実力主義は諸刃の剣。結果的に信長は、武士たちの競争心を煽り、能力さえあればのし上がれるという野心をブーストさせてしまった。「だから信長の周りでは裏切りが横行したし、最先端の人材採用戦略をとったがゆえのリスクも同時に甘受しなければならなかったわけです。それこそ、自分の一番近くに置いて仕事を任せた以上、全幅の信頼を置いたのが有能な明智光秀ですから、わざわざ裏切る隙を与えてしまったようなもの。だから“本能寺の変”は起こるべくして起きたとも言えます。本能寺で討たれなくても、信長はいずれどこかで殺されていたでしょうね。だから”是非に及ばず”なんです」。