映画監督は自身のイメージからどう逃げるか?『#ミトヤマネ』宮崎大祐監督が企てるカウンターと最適化【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
「映画は感傷とノスタルジーに蝕まれています」(宮崎)
――宮崎監督の強みって、ポップカルチャー全般に対してとても理解が深いことだと思っていて。正直、シネフィル周りに限らず日本の映画界、特に40代以上の男性監督って、ポップカルチャーに対するアンテナみたいなものをそもそも持ち合わせていないみたいな、そういう作り手が多いじゃないですか。
宮崎「そうですね」
――『大和(カリフォルニア)』におけるヒップホップに対する的確なアプローチもそうですけど、『PLASTIC』を観た時も「あっ、こんなにロックも好きだったんだ」と驚きがあって。そもそも宮崎さん自身はどういうタイプのリスナーだったんですか?
宮崎「入りはロックでしたね。中学生になったばかりのころはビジュアル系をよく聴いていて」
――『PLASTIC』も当初はビジュアル系のバンドの設定にするつもりだったとか?
宮崎「そうなんですよ。そこからバウハウスとかゴシックロックを遡って、ちょうどニルヴァーナとかの時代だったんで、同時代ではどんどん洋楽にいって。そこに高校生になってからはテクノとかも入ってきて、やがて同時代の音楽も過去の音楽も片っ端に聴くみたいな生活になっていって、当然その中にはヒップホップもあって」
――じゃあ、映画にもどっぷりな一方で、音楽に関しても普通にヘビーリスナーって感じだったんですね。『#ミトヤマネ』も、音楽の使い方を誤ったら一気に説得力がなくなってしまう題材だと思うんですけど、そこで外してないっていうのが、めちゃくちゃ大きいですよね。
宮崎「ありがとうございます。でも、なかなか周りの映画関係の方と音楽の話は合わないですね。すぐにニール・ヤングとかの話になっちゃうんで。『いや、ニール・ヤングも好きですけど…』っていう感じで(苦笑)」
――でも、それって日本に限らないですよね。自分が最近よく思ってるのは「映画ってロック世代で終わる表現形態なのかな」みたいな(笑)。だって、まだそんなに高齢ではない現役屈指の監督2人、ルカ・グァダニーノとジェームズ・マンゴールドがどっちもボブ・ディランを題材にした映画を撮るって、一体どういうことなんだよ、みたいな(笑)。既にトッド・ヘインズも撮ってますけど。
宮崎「(笑)。映画は感傷とノスタルジーに蝕まれています」
――本当にそうですね。そして、ロック世代以降の優れた才能が、映画の世界にあまり入ってきていない気がしてならないです。
宮崎「感傷とノスタルジー、嫌なんですよね…」
――だから、それを打ち破ってくれそうな宮崎監督に期待してしまうんです。
宮崎「打ち破っていきたいですね」
「映画監督にとってもパブリックイメージをどう打ち出していくのかって重要じゃないですか」(宇野)
――今回の『#ミトヤマネ』もまさにセルフイメージとパブリックイメージについての映画ですが、映画監督にとってもパブリックイメージをどう打ち出していくのかって重要じゃないですか。実像とパブリックイメージの間の距離をどうとるかというのは現代的主題でもあるわけですが、宮崎監督はどのように考えてますか?
宮崎「まさに、今日、宇野さんとの話はそういうテーマになってくると思ってました。古い映画ばかり観ているシネフィルがどうのみたいなイメージに――実際にそういう背景から映画作りを始めたんでしょうがないんですけど――絡め取られていくのがすごく嫌で。かといって、作品をなるべく軽くしようとしても、相変わらずいろんなしがらみがくっついてきて。さっきの音楽の話がまさにそうですけど、僕が映画でヒップホップを使ったりとかすると、周囲からは『よくわからない』みたいな反応が返ってくる。いっそ、そこから抜け出して、もう全部をリセットして、これからは記号としての宮崎大祐の第二段階を始めたいぐらいの気持ちではいるんです。だから、さっき言った“結局は自分になっちゃう”という意味でも、そういうところがこの映画に反映されているかもしれません。全部リセットしたい、自分の背景を忘れたい、誰かに背景を消してほしいという」
――なるほど。具体的に、第二段階でどういうところに行きたいというイメージはあるんですか?
宮崎「あります。もっと職人的になりたいと思ってます。作家とかアーティストとかではなく、職人的に映画を作っていきたいという思いが結構強いです。今後はその方向に行けたらなと」
――へえ! それは結構驚きです。
宮崎「出来るのであれば」
――確かに宮崎さんの作品って、これまで全部作風は違うんだけど、なぜか“作家の映画”として受容されてきたようなところがありますよね。最近の監督でいうと、さっきも名前を出しましたがちょっとジェームズ・マンゴールドみたいな。
宮崎「ありがとうございます。まさにジェームズ・マンゴールドは目標にしてる大好きな監督です。そういう方向にだんだんと舵を切っていけたらな、という思いはありますね」
――なるほど。『PLASTIC』や『#ミトヤマネ』でも脚本を書かれてますけど、場合によっては脚本を手放してもかまわない?
宮崎「もう全然問題ないです、はい」
――そういう気持ちに至ったのは、どういう理由からなんですか?
宮崎「これまでの映画作りは、自分にとって筋トレみたいなものだと思っていて。子供の頃、80年代に映画を観始めて、その頃のジャンル映画みたいな世界にずっと憧れがあるんですけど、すぐにそこに行けなくて、どうしても自分の周りにあるものから映画を作るしかなくて。でも、もう筋トレは済んだんで、これからは、もっとジャンル映画というか、エンターテインメント作品を撮ってくぞっていうつもりでいるんです」
――なるほど。これは特に『PLASTIC』に感じたんですけど、いくつかすごくひっかかる奇妙なシーンがあって、そこはもちろん作劇上ちゃんと効いているんですけど、そのいくつかのシーンを取り除いてみたら、実はかなり王道の青春映画にもなってるじゃないですか。ジャンル映画が撮れることを示した上で、敢えてすっとぼけたり、ズラしみせたりしているというか。
宮崎「あんまりこういうこと言うのは良くないかもしれないですが、実はそういうつもりもちょっとありました。おっしゃるように、“作家の映画”的なものもありつつ、その部分を抜くとちゃんと普通の映画になってるっていうのはあの作品で意識したところです」
「映画史には音楽史を追いかける側面があると思っていて」(宮崎)
――『#ミトヤマネ』に関しては、78分という上映時間も一つのステートメントになってますよね。
宮崎「はい。映画史には音楽史を追いかける側面があると思っていて」
――自分もそう思ってます。
宮崎「ですよね? だから、今20数曲入ってるアルバムが当たり前になってる一方で、すごく短いアルバムも増えているように、きっと映画もすごく長いかすごい短いものになっていくっていう見立てがあるんですよ」
――映画の長尺化については、ハリウッド映画だけでなく、濱口竜介監督のようにそれが許される環境で作品を作ってる人はどんどんその領域に入ってきてますよね。
宮崎「一方で、めちゃくちゃ長いTikTok、めちゃくちゃ長いインスタストーリーみたいな、そういう映画も今後は増えてくると思っていて。『#ミトヤマネ』はそれを明確に狙った作品なんです。あのストーリーで下手に説明的になったり、サスペンスを組み立てていったりすると、すぐに115分とかになっちゃうんですけど、そうではなくここは勢いでいく必要があるだろうと」
――やっぱりそうですよね。話していてすごくクリアになってきました。
宮崎「多分、映画が長くなってるのは延命措置なんですよ。長さが映画性を担保するというか、そうでもしないと倍速で見られちゃうし、YouTubeの動画と変わらなくなるみたいな、そういう映画の作り手側からの叫びなような気はしていて。映画というアートフォームがどんどん古典的なものになって、伝統芸能的なものになっていくという流れは、もう決定的だと思うんですけど。だからこそ、僕は長い映画の半分の尺でゴリゴリ行こうと思って」
――今後短い作品ばかり撮るというわけじゃないにせよ、『#ミトヤマネ』に関してはかなり意識的に狙っていったということですよね。
宮崎「はい」
――いずれにせよ、これまで映画の世界で常識とされてきたことに対しても、すべてに意識的にならざるを得ない時代ですよね。
宮崎「本当にそう思います。映画自体は、別に単純な自己表現とかでもいいと思うんですけど、おっしゃるように映画であることに対して意識的になっていかないと、なかなかもう商業作品としては成立させるのは難しいのかなとは思ってます」
――その上で、宮崎監督自身はそんな状況に希望を持ってる感じですか?
宮崎「日本だけのことを考えるとなかなか絶望的な気持ちにもなるんですけど、世界を見渡せばまだそこまで絶望的ではないという認識もあるので。そう考えたら、まだどうにかやり方はあるのかなっていう。一方で、僕には映画を作ること以外になにもできることがないっていうとこで、ここで止まっちゃったらやばいなっていう危機感はあります」