人はどうして”推し”に人生を捧ぐのか…?アイドルへの憧れを描く『トラペジウム』が与える尊さと気づき
推される側の人間に必要なのは覚悟
一方、推しとて本気である。年に何百回と板の上に立つ者であっても、現場は一期一会。1回1回のステージでどれだけベストなパフォーマンスを出せるかに全力を尽くす。夜中までレッスンに励むこともあれば、当然、自分が素敵に見えるよう計算もするだろう。少しでも手を抜いたらそっぽを向かれてしまうかもしれない。推しにとっても戦いなのだ。
だから、どんどんヒステリックに歪んでいく東ゆうの表情は、決して誇張でも露悪的でもない気がした。あそこまで取り憑かれた者だけが生き残れる。アイドルは、夢を与える職業だ。でもその夢が不純物ゼロのミネラル豊富な土壌で育まれたものではないことくらい、オタクだってわかっている。むしろいろんな汚濁を養分にして、それでも太陽めがけて咲く花ほど美しい。その覚悟を、人は推したくなるのだ。
だが、東ゆうが集めた残りの3人の女の子たちは次第にアイドルという生き方に疑問を覚えていく。東ゆうの策略でなし崩し的にアイドルになった彼女たちには、覚悟がなかった。結局、推される側になるための資質とは、顔のかわいさでもなくスタイルのよさでもなく、覚悟なんだろう。あらゆる毀誉褒貶の人身御供となる覚悟がいる。
ほかの人には見えない”光”を求めて推し続ける
そもそも推される側に回りたいだなんて無謀なこと、正気の人間には思えない。自分にその可能性があると信じるには、世間が決めた安定とか常識とか、そういうセーフティーバーをぶっ飛ばすだけの勢いが必要だ。それがつまり、愚かになるということ。
推し活とは、推す側も推される側も愚かなんだと思う。推す側と推される側の間で交わされることなんて、第三者にとっては路傍の石ほどの価値もない。でも、当人たちにとっては、それこそが最上。狂っていると笑わば笑え。けれど、推し活がカジュアル化していくほどに、そんな狂気の純度こそが本来の推し活の熱源だったのではないかと、東ゆうは思い出させてくれる。
「はじめてアイドルを見たとき思ったの。人間って光るんだって」
そう東ゆうは言う。本作のキーとなる台詞だ。現実的なことを言えば、人間は自然発光しない。でも光っているように見えることは確かにある。
僕の場合は、舞台だった。初めて推しができた瞬間でもある。舞台で役を演じる推しを見て、うめき声のように「イエス・キリスト…」と口走っていた。比喩ではなく、神様を見つけた気がしたのだ。あの時、間違いなく推しは光っていた。
ならば、アイドルを―広義で言うなら推しを、光らせるものとは何か。それはやっぱりオタクの思い込みだと思う。なぜならほかの人にまで光って見えるわけではないから。他人に見えない光が自分にだけは見える。万人に見える光なんてつまらない。推しは、自分だけの可視光線。自分にだけ光って見えるからこそ、余計にその光は強く濃く燃え上がる。
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●横川良明(よこがわ・よしあき)プロフィール
1983年生まれ。大阪府出身。テレビ・映画・演劇などのエンタメ分野を中心にインタビュー、コラムを手がける。主な著書に「自分が嫌いなまま生きていってもいいですか?」(講談社)、「人類にとって『推し』とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた」(サンマーク出版)、「役者たちの現在地」(KADOKAWA)など。