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濱口竜介監督が語る、エドワード・ヤン作品の魅力「人生が生きるに値することを見つけ続けた」

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濱口竜介監督が語る、エドワード・ヤン作品の魅力「人生が生きるに値することを見つけ続けた」

「悲劇的な大傑作を撮ってしまったあと、なにか楽天的なものを見つけ出そうとしたのではないか」

【写真を見る】エドワード・ヤンの魅力を語る濱口竜介監督
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――今回TIFFで上映されるツァイ・ミンリャン監督のデビュー作『青春神話』(92)も『エドワード・ヤンの恋愛時代』の2年くらい前に作られた作品ですが、とても同じ町には思えないです。すごく古い繁華街が出てくるし、ちょうどそれが取り壊されて、繁華街じゃない別のところにおしゃれな場所ができました。観比べてみると、台北の歴史上の転換点でこの映画が作られたことがわかります。いまは完全に近代的な都会になりました。

濱口「そういうものが混在しているなかで、敢えてモダンな台湾を描くことを選んでいる。もちろんおしゃれなウディ・アレンのような映画を作りたいという気持ちもあったとは思いますし、コメディのように、ところどころで笑いが起きていますが、笑ってない人もたくさんいました。きっとエドワード・ヤンは、あの町のモダンな側面にある一種の病、都市特有の人間が阻害されているところに焦点を当てたかったんだろうなと思います」

――改めて観てみて、なにか発見はありましたか?

濱口「ふと気になったのは、映画の最初から登場人物全員の顔が把握できるってことです。『牯嶺街少年殺人事件』は暗かったり遠かったりして、主要な登場人物をぜんぜん把握できないんですが、本作ではそれがわかるカメラポジションを選んでいるなと思いました。


ただ、全員の顔が見ていたいような顔かといえばそうではなくて、みんながなにかに駆り立てられていて、コミュニケーションをしているようで、全然人の話を聞いていない。言葉の量は過剰だけど、お互いに相手をどなりつけているだけです。だから顔は入ってくるけど、『牯嶺街少年殺人事件』とかそれ以前の映画で登場人物が持っていた神秘性や謎みたいなものを、最初は持たない状態で登場するんです。

『牯嶺街少年殺人事件』は、非常にわかりづらい映画でもあって、映像や音響とかが解体されてバラバラになっている映画でもあるんですが、本作はそうではなく、はっきり俳優が発話している。それがシンクロの録音で捉えられた映画で、わかりやすくなっているけど、情報はあまり入ってこない。なぜなら、彼らの話していることはほとんど内容がないから。彼らの深層にあるような渇きが叫びとして出ている状況になっていると思います。

結果として彼らがどうなっていくか。最初は顔が見えるけど、後半に行くにつれて、顔が見えなくなっていく。闇のなかに浸されていくというか、都市の光が届かないような場所でコミュニケーションをし始めます。そこでは、暴力的なことは話さず、親密で彼らが本当に思っていたことをたどりなおすんです。古い画面とともに、いままでとは違った声が聞こえてくるといった印象を受けました。

そうやって人間性が最終的に回復されていく。そこが『牯嶺街少年殺人事件』ともっとも違う部分です。それこそがエドワード・ヤンが本当に求めていたことというか、自分自身が『牯嶺街少年殺人事件』のような悲劇的な大傑作を撮ってしまったあとになにを作るかと考えた時、絶望的な状況から、なにか楽天的なものを見つけ出そうとしたのではないかと思いました」

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