『アイリッシュマン』は、2回目がより面白い!宇野維正が解説するアメリカの“自己批判”と“郷愁”
「1975年の出来事」の後日談が描かれていく『アイリッシュマン』の終盤40分は、長いエピローグであるだけでなく、そこで刻まれている深い無力感にこそ本作のエッセンスが凝縮されていると言っていいだろう。街のチンピラたちの生態を描いたキャリア初期の『ミーン・ストリート』(73)に始まり、『グッド・フェローズ』(90)、『カジノ』、『ギャング・オブ・ニューヨーク』(02)と、キャリアを通じてそれぞれの時代におけるアメリカの裏社会を描いてきたスコセッシ(2013年の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』も証券マンこそが現代のギャングであることを示唆する作品だった)。そんなスコセッシが77歳にして行き着いたのが、アメリカの近代史を丸ごと飲み込んで、CGという飛び道具を使ってまでも3人の名優がその半生を噛みしめるように演じきった、今回の『アイリッシュマン』ということになる。言うまでもなく、アメリカの裏社会とは、金と欲望と暴力にまみれた罪深い男たちの社会だ。スコセッシは本作でこれまでの作品のようにそんな裏社会の住人である男たちの人生を「切り取る」のではなく、その末路まで容赦なく描いていく。金と欲望と暴力にまみれた罪深い男たちに、「穏やかな老後」など待っているはずもない。本稿の前編でも触れたように、本作の登場人物の多くは、最初のシーンから「死因」と「死んだ年」とともに紹介される。一時的にどんな勢力や権力を誇っていたとしても、結局のところ男たちはほぼ例外なく収監されるか、殺されるか、あるいは収監された後に殺されていく。そして、たまたま生き残ってしまったシーランは、家族からも見捨てられ、後悔と罪の意識に苛まれてただ死を待っている。先述したように本作はシーランの回想から始まるが、それはつまりカトリックにおける罪の「告解」に他ならない。
スコセッシがそれぞれのキャリアの晩年を見据えたかのように盟友たちを集結させて、『アイリッシュマン』のような作品を2010年代の終わりに撮った理由も、マフィア映画に人生を捧げてきた彼自身の「告解」なのではないだろうか。シーランを見る娘ペギーの冷たい視線に象徴されているように、本作は金と欲望と暴力にまみれた男たちを、次の世代から、女性から、忌み嫌われ拒絶される愚かな存在として描いている。『アイリッシュマン』が視聴者に苦い後味を残すのは、本作がそのような自己批判の精神によって形作られているからだろう。ただし、本作には過去のアメリカへの郷愁も仄かに、しかし、確かに漂っていることも観逃してはいけない。
シーランのボスであるラッセル・ブファリーノは第三者を通して部下に汚れ仕事の指令を出すことはなく、必ず本人に指令を直接伝える。アイルランド系のシーランは確かにイタリア系マフィアの下請けをやってきたが、彼が生きてきた世界は、孫請け、ひ孫請けが当たり前となった新自由主義的社会よりはまだマシかもしれない。ホッファは確かにその立場を利用して裏社会と共犯関係を結んできたが、労働者の利益を代表して戦ってきたのも事実だ。80年代のレーガノミクスを経てアメリカで労働組合はすっかり骨抜きにされて、資本家の利益を代表する共和党の大統領に低所得労働者たちが投票し続けるという「捻れ」が現在も続く中、国内の経済格差はほとんど是正不可能な状況まで進行している。ホッファはジョン・F・ケネディが映ったテレビに向かってこう叫ぶ。「アイリッシュであろうが、カトリックであろうが、俺には関係ない! 俺がこの世の中で最も信用できないのは金持ちの子孫だ!」。右を見ても左を見ても、権力の側にいるのは人種や宗教を問わず金持ちの子孫ばかりの現代に、その言葉はなお一層虚しく響く。
文/宇野 維正