映画から社会への問い…オスカー俳優たちの意欲作『モーリタニアン 黒塗りの記録』をいまこそ観るべき理由
権力に立ち向かう人々の奔走と葛藤…社会派秀作で暴かれた真実の衝撃!
グアンタナモ収容所は同時多発テロの後にアルカイダの幹部やテロリストたちを収容するため、グアンタナモ米軍基地内に設置された。これまでに少なくとも15人の子どもを含む約780人が世界各地から連行され、司法手続きもなしに厳しい尋問や拷問、長期にわたる拘禁を強いられてきた。国際社会からの風当たりも強く、かつてオバマ政権は同所を閉鎖することを表明したものの実現には至らず。現在も40人ほどが収容されていると言われ、バイデン大統領は自身の任期中の閉鎖を目指していると報じられている。
このグアンタナモ収容所の内側を告発した映画は過去にも製作されたことがある。第56回ベルリン国際映画祭で監督賞を受賞したマイケル・ウィンターボトム監督の『グアンタナモ、僕達が見た真実』(06)という作品で、ボランティアに向かったアフガニスタンで戦闘に巻き込まれてテロリストと誤認された青年がグアンタナモ収容所で過ごした3年間の日々が、本人たちのインタビューと再現映像を織り交ぜながら描かれていく。グアンタナモで無実の青年がどのような処遇を受けていたのか、暴かれていくその実態が世界に衝撃を与えたことは言うまでもない。
もとより強大な権力に屈することなく立ち向かう人々を描くことは、社会派映画というジャンルにおいて最も崇高な姿である。古くはウォーターゲート事件を調べ上げたジャーナリストたちを描いたアラン・J・パクラ監督の『大統領の陰謀』(76)があり、また近年でもベトナム戦争への軍事的関与を示した文書を世間に暴露したワシントン・ポストの記者を描いたスティーヴン・スピルバーグ監督の『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(17)など、政府の隠蔽とそれを暴くジャーナリストの対立構造というのは最もオーソドックスなパターンの一つ。
しかしこの『モーリタニアン 黒塗りの記録』においては政府の隠蔽を目の当たりにする人物がジャーナリストではなく、その隠蔽によって大きな被害を受けた人物の弁護人であり、また政府と近い位置にいる米軍の関係者であるという点で前述の2作とは異なる意味合いを持つ。ブラックボックスが単に外側から破壊されていくのではなく、内側から綻んでいく様も露呈していくという印象であり、そうした描かれ方によって、この物語が“暴く側”のヒロイズムを客観的に見せるものではなく、観客にとっても誰にとっても他人事ではないと証明する。
また同様に、第88回アカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞した『スポットライト 世紀のスクープ』(15)は、カトリック信者の多いボストンの町の地元紙の記者がカトリック教会の性的虐待事件を暴くという葛藤を描き切り、かつローカルな事柄から世界規模の大きな事柄へと拡がる様を見せることでジャーナリズムの可能性を見せつける。そして聴覚障がい者学校の新任教師が校内で常態化している性的虐待を告発する韓国映画『トガニ 幼き瞳の告発』(11)は、韓国国内の法制度を変えるきっかけとなるなど現実社会にも大きな影響を与えた。
これらの映画はアンタッチャブルな題材に、それがよりアンタッチャブルな立場となりうる登場人物のポジションから切り込んでいくタイプの社会派映画といえる。“世界でいまなにが起きているのか”を全世界に向けて発信するという社会派映画が本来持ちうる役割に、受け手である観客に対して“その問題にどう向き合っていくべきか”という問いを与えてくれる。その系譜に、この『モーリタニアン 黒塗りの記録』も加わったといえよう。