いつまで夢みてるの?シビアな現実を突きつけるロボットとの友情物語
ロボットとの友情物語。そのいかにも子供向けの設定に、どうやら私は胡坐をかいていたようだ。お菓子みたいに味わい慣れたハッピーエンドで幕を閉じるに違いないと、高をくくっていたのだ。
ドッグの寝室に飾られたフィギュアは、マジンガーZと「スター・ウォーズ」のC-3PO、R2-D2。中央のキャラクターは『禁断の惑星』(56)に登場する万能ロボット、ロビー。おそらくドッグは、幼いころからロボットに憧れを持ち、“ロボットとの友情”を夢みて生きてきたのだろう。「ドラえもん」育ちの私には想像に難くない感覚だが、そうでもない人達もいる。むしろたぶん、そうでもない人達の方が多い。作中でも、ロボの腕をつり革代わりにするモグラや、友達ロボットを叩いて遊ぶヒツジなど、ロボットに人格を見出さず、“道具”扱いするキャラクターが序盤からしっかり存在している。「いい歳して、いつまで夢みてるの?」かわいらしい絵柄とは反対に、そんな現実が淡々と、シビアに示されていたのだ。
この映画は、子ども向けの甘いお菓子なんかではなかった。だからロボは鉄くずとして売り飛ばされ、バラバラのスクラップにされてしまったのだ。ひどい!なんてことを!とまっすぐ怒れるほど子どもでもないから始末が悪い。世の中、いつでも尊重してもらえる訳ではないと知っているくらいには中途半端に大人なのだ。それはきっとドッグも同じで、子どもじみた趣味だと笑われることも承知していたから、フィギュアをあえてベッドサイドに飾っていたのではないか。
でも、大切なものを抱きしめたまま生きたいじゃないか。それは手放すべき“子どもっぽさ”じゃなくて、手放してはいけない“自分らしさ”だと思っているし……そう思いたい。
甘ったれた考えだったろうか?このままドッグとロボは出会えないまま、いつかドッグはロボとの日々もあっさり忘れ去ってしまうんだろうか。そんな悲しい結末が訪れるんだったら耐えられない。大切にしていたものを忘れていくことが“大人になる”ってことなんだったら、やっぱり私は大人になれないままでいい。
こういう大人になりたい!小粋で大人な理想像、ラスカル
そんな絶望をすくいあげてくれるのが、我らのラスカルおじさんである。ポケットにはチュッパチャプス、趣味は機械いじり全般、お気に入りの曲はウィリアム・ベルの「Happy」。まさに子ども心を持ちつつも、ちゃんと小粋で大人な理想像。なんというか、めっちゃ所ジョージ。こういう大人に、私はなりたい。
あまりに憧れてしまったものだから、久しぶりにチュッパチャプスを買ってみた。お会計の時、小さなバーコードをピッとするのに店員さんが苦労していて申し訳なかった。はて、前からこんなサイズだったかしら。飴が小さくなったのか、私が大きくなったのか……。後者だと思うことにしよう。大人になることに切ない体験はつきものなのかもしれないけれど、ラスカルおじさんを見ていると、それって別に悪いことじゃないのかなと思える。彼は確かにひとりだが、なぜだかいつも“Happy”に見えるのだ。
ラスカルおじさんも、スクラップ置き場でワニくんが出してきたロボの頭部を見てギョッとしたあたり、ドッグと同じようにロボットに愛情を持っている大人のようだ。その暮らしぶりを見るに、多趣味で凝り性なところもドッグと共通している。自立して生活しているが、誰か特段親しい友人の姿も、家族の姿も見えないので、彼もまた、他人から言わせてみれば“孤独”なのかもしれない。ではそれでも“可哀想”には映らない彼は、ドッグと何が違うのか。そのヒントは、ドッグとロボの物語がたどり着くラストと、印象的にリフレインする楽曲たちにある。