「気が弱いからこそ、強面でいたのかもしれない」亡き崔洋一監督に捧げる、38年目の『友よ、静かに瞑れ』秘話
「ロケハンの時、浜辺で4時間も話しこんで。楽しかったな」(浜田)
――沖縄ロケの思い出やエピソードを教えてください。
浜田「沖縄で撮ると言いだしたのは崔だったと思います。それで崔と脚本の丸山昇一、ラインプロデューサーと俺の4人でロケハンに行ったんです。海洋博公園から北部をまわって、たどりついたのが辺野古。町の入口に『Welcome』って看板が出てるんだけど、町には誰も歩いていないんですよ。どの家も窓を閉めていて、そのすき間から覗いているみたいな。もともとあの辺りは台風が来るから家の窓が小さくて、外は明るいんだけど家の中は暗いイメージなんです。その雰囲気がすごくいいなと思って」
成田「原作は東北の排他的な地方都市なんだけど、共通項があるから沖縄になっても成立するんです」
浜田「夜の雰囲気も見ようと4時間ほど海岸で時間を潰して、自分がたどってきたこれまでの道のりとか、みんなでいろんな話をした。それがすごく楽しかったな。そのうち飲み屋がぽつぽつと開いてきて、それもいい雰囲気で『ここだ!』となりました。主人公が泊まるホテル、フリーインは看板を付けたくらいで壁などそのまま使いました。バーの外観もそのまま使っています」
成田「店内はセットですね」
浜田「そうだね。ただイタリアン・レストランは店内もそのまま使いました。あのお店はいまでもあるんですよ。最初は排他的な町だと感じていたけど、いざ撮影が始まると町全体がすごく協力してくれました」
成田「飲み屋街の組合長がすべて話をつけてくれて、キャンプ・シュワブ(在日アメリカ海兵隊の駐屯地)の司令官との仲介もしてくれた。いま辺野古の基地はいろいろ大変だけど、当時は通信基地だったんでのんびりしていたね」
――キャンプ・シュワブは実際の基地をそのまま撮影したんですか?
浜田「まんまです。冒頭の軍の車輌のシーンも米軍が協力してくれました。兵隊には訓練だと伝えてやらせたようで、撮影では3回くらいやってもらったね」
成田「そうそう、走って戻って隊列を組みなおすまで、30分以上はかかったけど」
浜田「あと普通の町でロケする場合はライトを乗せるための足場を組みますが、辺野古の家にはみんな屋上があって、どこにでもライトを乗せていいよと言ってくれました。だからあれだけの分量の夜間撮影ができたんです」
「現場では、崔さんに『これでいいよな?』って何度も訊かれました」(成田)
――撮影にあたって崔監督とはどんなお話しをされたのでしょうか。
浜田「どう撮るか、崔と話した記憶がないんです。ロケハン時に海岸で話したなかで、映画に対する共通の想いが出来ていたんでしょう。だから撮影はスムーズでしたよ」
成田「映画監督はみんなそうだと思うけど、監督という立場になると臆病になることがあるんです。だから現場では『成田、これでいいよな?』って何度も訊かれてね。いいんじゃないの、と答えると『そうだよな!』って気持ちよさそうにニカっと笑っていた(笑)」
――ハードボイルドな空気感が魅力的な本作ですが、崔監督の画作りについてお聞かせください。
浜田「基本的に、アクションでも深作欣二さんのように手持ちでガーッと行くような激しい撮り方はしないんです。『友よ、静かに瞑れ』にしても、役者の全身を入れたフルショットがほとんどで、カットもあまり割っていないでしょ。崔は感情に合わせて細かく割っていく人じゃなかった」
成田「自分のセンスのなかで、必要ないと思ったらカット割りはしない人ですね。大島渚さんもそういうところがあった。僕が助監督をした1978年の『愛の亡霊』では、崔さんが陣中見舞いに来て。大島さんは撮影の宮島義勇さん、美術の戸田重昌さんというすごい方々とやっていましたが、全体の空気を作ったら、あとは宮島さんや戸田さんが『こうやります』と言うまま撮っていた。そんな大島さん独特の演出法を、崔さんも意識したんじゃないかな」
浜田「だからスタイリッシュに見えるんでしょうね。藤(竜也)さんと原田(芳雄)さんの夜のアクションも、ずっとフルショットじゃないですか。殴られた瞬間だけ顔に寄るとかね。崔はテストの時も『ちょっと覗かせてくれ』とたまにファインダーを覗くくらいで、どうのこうと細かいことは言わなかった」
成田「確かに技術的なことにあまり口を出すことはしなかったな。字が汚いからカット割り台本も書かない。書いてもなんて書いてあるのか読めないし(笑)」
浜田「そういや崔のカット割り台本は見たことがない気がする。そもそもカット割りの相談をされたこともほとんどなかったと思う。考えてはいたかもしれないけど、短いカット割りを指示してくる人ではなかったですね」