横浜流星はロケハンから参加。“村社会”としての日本が抱える問題を描いた『ヴィレッジ』の圧倒的熱量の理由とは?
作品を貫く「絶対に芸能・エンタテインメントは死なない」という想い
元々、『ヴィレッジ』は「村」「能」「産業廃棄物」「同調圧力」といったキーワードから河村プロデューサーが構想したものを、藤井監督が試行錯誤を重ねて現在の形にまで研ぎ澄ましていった作品となる。本作の公開に際して制作されたインタビュー&メイキング映像集「700日のヴィレッジ」では、藤井監督が「コロナ禍で、芸術は不要不急という風潮が広まった。その部分に対する“答え”として、日本最古の芸能である『能』を入れたいと河村プロデューサーに言われた」と明かしている。そこには「絶対に芸能・エンタテインメントは死なない」という河村プロデューサーの覚悟と決意が込められている。
では、ストレートにエンタメ感満載の作品を創り上げて“対抗”するのかといえば、そうではないのが河村プロデューサーの流儀。いまの世の中に対し、痛烈な物語でカウンターを食らわせる企画を生みだしてきた河村プロデューサーは、『ヴィレッジ』というタイトルに“村社会”の意を込めた。ロックダウンという混沌と混乱のさなかで加速した、日本人の受動的/思考停止/事なかれ主義な国民性と過剰な「同調圧力」。劇中の“能面をかぶった村民が一列になって練り歩く”ビジュアルは、没個性的な現代日本の状態を示している。最初期段階では「隕石が落ちてきて人々が能面のように無表情になる」という荒唐無稽なアイデアもあったようだが、描こうとする本質は変わらない。個人としての意志をなくした/行動することを諦めて集団に帰属化した姿だ。
少し脇道に逸れるが、筆者は本作の制作段階においていくばくか携わり、編集作業中に作品の方向性において藤井監督とディスカッションをする機会を得た。その際に彼が語っていたのは、いわゆる“村モノ”の映画とは趣を異にするということ。日本という国自体をひとつの“村社会”に見立ててこの舞台設定を行った。つまり、劇中の村は固有のコミュニティの姿を借りた現代日本の縮図なのだ。最終的に内側の“住人”となったものの、一時は優が村に移住してきた/山奥で育ち文明を知らない等々、外側から異常性を見つめていく設定も検討されていた。
ただ、河村プロデューサーがエンタメの底力を本作の裏テーマに据えていたように、彼の目線は(長年苦楽を共にした宣伝プロデューサー、石山成人の言葉を借りるなら)「ソーシャルグッド(社会に対してよい影響を与えようとする活動)」だった。「700日のヴィレッジ」で藤井監督が語るように、本作は批判ではなく、あくまで問題提起としての立ち位置をとっている。関わる者、観る者をまるっと包み込み、現状の歪さを自覚するように“気づき”を与えて未来を好転させていきたいという意志がそこにはある。『ヴィレッジ』は物語の展開的にいえば心をえぐる悲劇的な要素が強いが、本作が社会の一員である我々になにを与えてなにを促すのか、委ねられ、託されたものをいま一度考えたい。
藤井監督による多面的な人物描写と映像センスが融合した映画『ヴィレッジ』
河村プロデューサーの想いを受け、本作を作り上げていく過程で30代という現役世代としてのリアルな社会へのまなざしを注入していった藤井監督。劇中で悪夢的に描かれる“子が親の罪をあがなう”という構造は、年金問題などの少ない人数の下世代が大勢の上世代を支えねばならない状況と重なる。負の遺産を作るだけ作ってドロップアウトする父(淵上泰史)、すがりつく母(西田尚美)への断罪が描かれないのも実に生々しい。
また、いわゆる“ヒロイン”像とはまるで違う美咲の病んだ性格も本作の大きな特徴。都会で傷つき、地元で居場所を築こうとする美咲は優を引っ張り上げるようでいて、実は(無意識的に)利用してもいて、共依存関係になってゆく。優を陥れてゆく透や村長(古田新太)にしても、表面的な悪役としては味付けされていない。持たざる者としての鬱屈した気持ちがエスカレートして破滅的な行動を起こすという意味では、たとえ共感はできずとも理解はできるだろう。作間龍斗扮する美咲の弟も、実を伴っていない理想論で状況を悪化させる。道徳的/倫理的に正しい行為であっても、その目線における不健全な状態で生きている人々が居場所を失う結果になるのは避けられない。この辺りは『ヤクザと家族 The Family』にも通じる要素だろう。
そこに、「能」から2つの演目を引っ張り、作品としての奥行きを生みだしていった。1つは「邯鄲(かんたん)」。不思議な枕でひと眠りした旅人が、50年における栄枯盛衰を経験。しかしそれは一睡の夢だったという儚い物語で、優の人格形成にも大きな影響を与えた。そしてもう1つは「羽衣」。羽衣をなくしてしまった天女が、舞を踊る代わりに羽衣を拾った男に返してもらおうとする物語。こちらは美咲を象徴する演目として機能している。
なお、角度によって喜怒哀楽の印象が変わる能面のイメージは、横浜の演技にも連動されていった。美咲と過ごしている時間の一瞬、施設を取材するテレビ番組に出演する際、ラストシーンで優が見せる表情をどう受け取るか…。一言で判じられない奥深い“怖さ”がそこにはある。観る者が自由に解釈していい/明確な答えを設けないという「能」の在り方にも通じる部分だ。
こうした書き手としての多面的な人物描写という藤井監督の強みに、映し手としての映像センスが融合していった『ヴィレッジ』。藤井監督は『新聞記者』で“風”、『ヤクザと家族 The Family』で“煙”といったようにヴィジュアルイメージとしてのコンセプトを作品に設定したうえで撮影に臨む。『ヴィレッジ』においては、“霧”がその役目を担った。ここでいう霧とは、つかめないもの、覆い隠すもの、やがて消えてしまうものといった様々な意味を含んでいる。「700日のヴィレッジ」のなかで藤井監督は“不透明性”のメタファーとして霧を用いたと語っており、どのようなシーンで登場するのか改めて見返していただきたい。
ちなみに、“鏡”“穴”も重要なアイテムとして登場。鏡は時に己の真実を映しだすものであり、左右が反対に映る虚像でもある。これは個人的な感覚だが、こうした映像演出はジャン・コクトー監督の『オルフェ』(50)等を想起させ、神話性/寓話性の創出にも一役買っている。そして、ゴミの最終処分場に出現する穴。そこから発せられるヒュウヒュウという“音”は優に憑りつき、彼が感情を抑えられずに肩で息をする際の音とも不気味にシンクロしてゆく。蓋をして埋めても穴自体は消えることはなく、心の状態によって露出してしまうのだ。
主演・横浜流星×監督・藤井道人×プロデューサー・河村光庸。各々が持てる限りを費やして創り上げた『ヴィレッジ』。作品単体の強度、“村社会・日本”に対する問題提起、目撃した我々一人ひとりの未来。映画が流れ去るものになりかけているいま、風化させず、一過性のものにしないためにも、個々人の生活の一部に出来るパッケージを選択し、ぜひ目に焼き付けていただきたい。『ヴィレッジ』Blu-ray豪華版(特典DVD付)には、特典として「700日のヴィレッジ」やナビ番組、イベント映像集など、作品の裏側に迫る魅力的なコンテンツが満載。さらに、本編の魅力を一層引き立てるキャストやスタッフのインタビューも収録されている。
文/SYO
映画『ヴィレッジ』
発売中:ヴィレッジ Blu-ray豪華版(特典DVD付)7,480円(税込)/通常版DVD 4,400円(税込)
発売元・販売元:KADOKAWA
[c]『ヴィレッジ』製作委員会
https://www.kadokawa.co.jp/product/video2088/