人の“つらさ”に寄り添い続けた歌人の遺した想いを精神科医が『滑走路』から読み解く!
いじめの構造は差別と相似形
いじめの理由にはいろいろなものがあるかもしれませんが、「なんか嫌い」、「なんかムカつく」といった、ほとんど理由とは言えないものが多いのではないでしょうか。人を攻撃し、優位で支配的な立場を強烈に保っていないと安心できない人の中で、なぜだかその集団においてある程度の権力を握った人が、自分の意のままに操れる人を従えて、「なんか嫌い」だったり「なんかムカつく」人を執拗に攻撃する。その気持ちの内実には、いじめをする人が自分でも気づけていない劣等感や、家庭で安心して過ごせないなど、放っておいてはいけない問題があるかもしれません。でもだからといって、誰かを攻撃することでその不足感を補おうとすることは圧倒的に間違いです。そんな、いじめる側の姿を本作は正確に描いており、とてもリアリティを感じました。
このような構造は、現代の社会に存在している様々な差別と相似形です。この形が個人的な範疇を超えて、人種や性別、障害などに拡大したものが、社会的な規模での差別だと思います。そして、学生時代にも学校という社会のなかで深いつらさを生む、あまりにやるせない、いじめという問題が、決して珍しくないものとして根付いてしまっています。
残酷なのは、学生時代は心の発達も、人生経験値も未熟なため、そのようなことに自発的に思いを馳せ、思いやりのようなもので自分を調整することはできにくいということです。幼なじみの裕翔(池田優斗)を助けたことをきっかけにいじめの標的になってしまう学級委員長のエピソードでは、中学生ゆえの彼らの未熟さがさらなる悲しみの連鎖を生んでいく様が描かれます。
さらに、いじめる側の多くは集団になっているので、自分たちのしていることを振り返って手を緩めるよりむしろ、どんどんエスカレートしていくことのほうが多いように思います。いじめられるほうも、自分に対して極端に否定的な集団に囲まれて立て続けに攻撃を受けるので、じっくり考える余裕など到底持つことはできません。だから、自分がなぜいじめられるかはよわからなくても、それに甘んじるしかない状態に陥ってしまいます。
いじめは人の人生を変えてしまうほどタチの悪い暴力
本作を観ていても、なぜ親や教師に相談しないのだろうか、と思ってしまいそうにもなりますが、それをすることでさらなる二次的なつらさが生まれるかもしれないし、シングルマザーの母、陽子(坂井真紀)に心配をかけてしまうかもしれないと考え、いじめが苛烈さを増しギリギリをとうに超えても学級委員長は我慢し続けてしまいます。
それでも一言、誰かに相談しようよ、というのは恐らく外野の意見でしかなくて、自分といじめる集団しかいない密室的な現場で陰湿に攻撃されるという状況に身を置き続けると、冷静な判断なんてできっこないのだと本作を観て改めて思いました。
いじめによって受けた心の傷はなかなか癒えるものではありません。もちろん、その経験があっても立ち上がり、社会人になって豊かさを育んでいる人も多くいると思います。でも恐らく、対人関係においていつ攻撃を受けるかわからないという、深く刻み込まれた恐怖感や不安、そして、なかなか自分に自信を持つことができず大きく自己否定に傾いてしまう考えのつらさなど、自分の心の奥に内在する鈍い重さのようなものから完全に逃れることはかなり困難なことだと思います。これらは、その人の人生を大きく変えてしまうほど、タチの悪い暴力なのです。だからこそ、いじめの問題は社会をかけて取り組むべきで、とくに学級委員長のエピソードに触れると、誰もがその思いを強くするであろうと思います。