『こんにちは、母さん』とロケ地“墨田区”との親和性。山田洋次監督ならではの視点で切り取った、下町の魅力と歴史

コラム

『こんにちは、母さん』とロケ地“墨田区”との親和性。山田洋次監督ならではの視点で切り取った、下町の魅力と歴史

映画やテレビドラマに撮影可能なロケ地の情報を提供し、案内、調整をおこなう組織「東京ロケーションボックス」は、映像作品を通して東京の魅力を国内外に発信しながら、ロケ撮影で地域活性化を図ることを目的としている。その活動内容の紹介として、今回は東京ロケーションボックスが「すみだフィルムコミッション」との協働のもとサポートした、山田洋次監督の当時91歳にして90本目の監督作となる『こんにちは、母さん』(公開中)にフォーカス。東京の下町を舞台に、3世代の家族と親子の物語を描いた本作で、山田監督がとことんこだわって探したロケ地、東京都墨田区向島を中心としたスポットの数々を紹介したい。

大会社の人事部長として、リストラ計画に神経をすり減らし、家では別居中の妻との離婚問題、反抗的な大学生の娘、舞(永野芽郁)との関係に頭を悩ませる神崎昭夫(大泉洋)。久しぶりに母の福江(吉永小百合)が暮らす東京下町の実家を訪ねると、母が以前よりもおしゃれになり、生き生きと生活していることがわかる。どうやら、母は恋をしているらしい。昭夫はそんな母の変化に戸惑いながらも、お節介だが温かい下町の住人たちや、これまでとは違う母との交流を通して、自分が見失っていた大切なことに気づかされていく。

東京都墨田区での撮影にとことんこだわった山田洋次監督
東京都墨田区での撮影にとことんこだわった山田洋次監督[c]2023「こんにちは、母さん」製作委員会

原作は、日本の演劇界を代表する劇作家で演出家の永井愛による人気同名戯曲。下町に暮らす母、福江を演じるのは、『母べえ』(08)、『母と暮せば』(15)など数々の山田洋次作品に出演してきた吉永小百合。福江の息子である昭夫役に、山田作品への出演、吉永との共演は共に初めてとなる大泉洋。昭夫の娘、舞役を、山田組作品への出演は『キネマの神様』(21)に続いて2回目となる永野芽郁が演じている。

本作において、一つのキャラクターともいうべき重要な要素を担っているのが、ロケ地となった墨田区向島である。代表作「男はつらいよ」シリーズのなかで、下町で暮らす人々を描いてきた山田監督は、長編デビュー作『下町の太陽』(63)でも墨田区を舞台にしていた。江戸時代からの伝統や文化が息づき、下町の人情あふれる墨田区の街には、東京スカイツリーという新しいシンボルがそびえ立つ現在も、どこか懐かしい雰囲気が感じられる。人の温かさ、家族の絆を描く山田洋次監督作品には、まさにふさわしいエリアだと言える。

主人公、昭夫の心情とリンクする隅田川テラスに戦火の記憶を思い起こさせる言問橋

墨田区の西側に位置する向島。ここで暮らす人々の生活のなかで身近なものの一つが、隅田川から眺める景色だ。川の両岸に沿って、きれいな遊歩道が整備された隅田川テラスは、23区内でも特に空が広く見えるロケーション。隅田川にはいくつもの橋が架かっているが、本作では、昭夫が仕事や家庭に思い悩む時に、言問橋近くの隅田川テラスに佇んで、川を眺めるシーンが何度も登場する。

会社では人事部長として、学生時代からの友人でもある同期の木部(宮藤官九郎)をリストラしなければならないという責務に苦しみ、私生活では妻の知美(名塚佳織)に家を出て行かれてしまった昭夫。普段は朗らかな彼が、ただ一人で、光を反射して揺れる川面をじっと見つめているシーンからは、胸の内のやるせない心情がしみじみと伝わってくる。

ひとりわびしく夕食をとる昭夫。悩める表情と、背景の生活臭が哀愁を感じさせる
ひとりわびしく夕食をとる昭夫。悩める表情と、背景の生活臭が哀愁を感じさせる[c]2023「こんにちは、母さん」製作委員会

また別の日、同じく言問橋近くの隅田川テラスから、昭夫が「釣庄」の屋形船が通り過ぎるのを見つめるシーンもある。劇中、大学の同窓会の幹事になったという木部が、会場の候補として昭夫に相談していたのが、この屋形船だ。屋形船を貸し切り、宴会をして盛り上がる楽しそうな人々と、孤独な気持ちを抱える昭夫との対比がせつない。

印象的な登場人物として劇中に何度も現れるホームレスの男性、イノさん(田中泯)。隅田川を見ながら缶ビールを飲んでいた昭夫に対して、飲み終わった空き缶を渡すように求めながらも一筋縄ではいかない人生について語り合っている。そんな2人が再会したのは言問橋。橋の上でバッタリ会った昭夫に、突然、イノさんが幼少期に体験した東京大空襲について語り始める。話すうちに、どんどん興奮してしまうイノさんをなだめながらも、彼の話を聞く昭夫。街の巡査(北山雅康)も加わるこのシーンの撮影は、山田監督が何度も演技指導に入り、熱演が繰り広げられたという。

墨田聖書教会など『こんにちは、母さん』のロケ地となった墨田区のスポットを紹介!
墨田聖書教会など『こんにちは、母さん』のロケ地となった墨田区のスポットを紹介![c]2023「こんにちは、母さん」製作委員会

墨田区は1945年3月10日の東京大空襲で甚大な被害を被った場所。特に浅草と向島を結ぶ言問橋は、両側から戦火を逃れようとした人が殺到して、多くの死傷者を出した。山田監督にとって「2023年の街だけでなく、その基層にある戦争のことを描き、背負ってきた記憶も含めて向島をとらえる」ことは、譲れないポイントだったという。


戦火の記憶が忘れられないイノさんは、現代の東京を描いた本作のなかで、戦争の悲惨な歴史を体現する重要なキャラクター。それでいて、酔っ払って、橋の欄干につかまるイノさんと、彼にクダを巻かれて慌てふためく昭夫とのやり取りはコミカルでクスッとさせられる。シリアスなことを軽やかな語り口で描く山田節が光るシーンだ。

美しい夕景が映しだされるこのシーンでは、すみだ郷土文化資料館の協力のもと、空襲を体験した人々がその時の言問橋の光景を描いた空襲画も効果的にインサートされ、平和が一瞬で破壊されてしまう戦争の恐ろしさを観る者により強く感じさせる。

スカイツリーを望む隅田川テラス
スカイツリーを望む隅田川テラス[c]2023「こんにちは、母さん」製作委員会

また、言問橋では、映画の終盤、福江の想い人だった荻生牧師(寺尾聡)が新たに北海道の教会に務めるため車で空港へ向かう際に、自転車をこいでいるイノさんの姿を見かけるシーンも撮影。運転席に座る昭夫の幼なじみである百恵(枝元萌)から、福江の自分への想いが真剣だったことを知った荻生が、車の窓からイノさんに向かって、万感の思いを込めて声援を送る姿に胸が熱くなる。

昭夫の一人娘、舞は映画オリジナルのキャラクターである。息子と母親の話から、その孫へと世代を広げることで、物語が一段と豊かになっている。彼女が祖母である福江のボランティア活動の手伝いを通じて出会った恋人と待ち合わせをした場所は、隅田公園のそよ風ひろば。約8万平方メートルの広さを誇る隅田公園は、隅田川沿いにある公園で、東京下町に暮らす人々の憩いの場。春は桜の名所、夏は隅田川花火大会の会場としても有名だ。そよ風ひろばでは、1年を通して、様々なイベントも開催されている。新しい時代を象徴する、さわやかなカップルのデートにぴったりのスポットである。

荻生牧師に贈る上履きを繕いながら、舞に亡き夫と結婚した経緯を語る福江
荻生牧師に贈る上履きを繕いながら、舞に亡き夫と結婚した経緯を語る福江[c]2023「こんにちは、母さん」製作委員会

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