91歳の巨匠・山田洋次監督を支え続ける“番頭”が明かした、『こんにちは、母さん』の舞台裏
「“くるまや”を思わせるセットの間取りは、制作部から提案しました」(牧野内)
劇中でもう一つメインの舞台となるのが、昭夫の実家である足袋屋でのシーン。セットを建てて撮影が行われているのだが、通りに面した店舗部分とその奥に登場人物たちが集まる居間であったり、居間に面した急な階段であったり、2階にある和室であったり。「男はつらいよ」シリーズに登場する“くるまや”から「家族はつらいよ」シリーズの平田家まで、これまでの山田監督作品を想起させる間取りに、ファンならば即座に気が付くことだろう。
「いまではあまり見ないタイプの家の作りをしていますが、山田監督は昔からあのような形のセットで映画を撮ってきました。制作部としては、きっとこのような間取りのセットを監督が望んでいると考え、案を出しました」と牧野内は振り返る。すると房は「セットの特徴は、広くゆったりして映画を撮りやすいこと。でも監督はそれに逆行するように『どんどん狭くしろ』と仰っていて(笑)」と明かす。
「美術部からしたら悩みどころだったと思いますが、狭い空間に大勢の大人たちが一緒にいることによって、この作品の持つ“横のつながり”というテーマをスタッフやキャスト全員が身をもって感じるきっかけにもなりました。それが監督のねらいであり、こだわりだったのかなとも思います。もちろんコロナ対策に関しては常に消毒を欠かさず、緊張感をもって撮影に臨んでいました」。
「『映画を撮っているうちは死なない』。山田監督を全力で支えていきます」(房)
「最初に一緒にお仕事ができると聞かされた時は、この業界で働いているからには記念に一本ぐらいやれればいいなという気持ちだったのですが、いつのまにか10年も続いていました」と、牧野内は“山田組”への想いを明かす。「とにかく感じるのは、周りの反応のすごさです。特に年配の方に山田洋次監督と仕事をしていると話すと、知らない人はいない。それだけ偉大な監督なのだと実感します」。
一方の房プロデューサーは「僕にとってはずっと“親戚のおじいちゃん”みたいな感覚があります」と、山田監督との出会いに話が遡る。「10歳の時、渥美清さんの遺作となった『男はつらいよ 寅次郎紅の花』の撮影が奄美大島で行われたのですが、僕の実家のサンフラワーシティホテルがロケ隊の宿泊場所になりました。その時初めて山田監督と出会ったのですが、当時『寅さんが奄美に来た!』と島中が沸いていたので、すごい監督なんだと感じ、それ以後も毎年のように監督は何人もスタッフを引き連れて来てくださりました」。
山田監督の家に5年ほど住み込みで働いていたこともあるなど、山田監督と家族のような関係を長年続けてきた房プロデューサー。「元々奄美大島には映画館がなかったので、小さい頃は映画にあまり興味がありませんでした。ですが山田組の方々の細やかな気配りや、監督と山田組スタッフとの素敵な関係を目の前で見て惚れ込み、一員になりたい!と強く願い参加させていただきました。なので、いまでもずっと“お手伝い”をしている感じですね」とにこやかに語る。
そして、90代を迎えても精力的に作品を生みだしつづける山田監督との今後に、2人は想いを馳せる。共通していることは一つ、「ずっと映画を撮り続けてほしい」ということだ。牧野内は「監督にはぜひとも時代劇を撮ってほしいですね」と、山田監督が『武士の一分』(06)以降手掛けていないジャンルへの期待をあらわにし、房プロデューサーは「学校」シリーズや『たそがれ清兵衛』(02)など1990年代以降の“山田組”で撮影監督を務めていた長沼六男カメラマンが山田監督のもとを訪ねてきた際のエピソードを明かす。
「カメラの技術も進化し、いまではオンラインツールを使って現場に行かなくても映画の撮影ができるようになりました。長沼カメラマンから『それで映画を撮り続けてください』と言われた山田監督は、とてもうれしそうにしていました。体力には限界がありますが、それでも『映画監督は、映画を撮っているうちは死なない』という噂もよく聞きます。最新の技術を駆使しながら、監督が一本でも多く作品を撮り続けられるよう、僕らも全力で支えていきます」。
取材・文/久保田 和馬